『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』ティム・バートン梅本洋一
[ cinema , music ]
ティム・バートンがこのブロードウェイ・ミュージカルの傑作に興味を持ったのは、本当に自然なことだと思う。初期の『バットマン・リターンズ』の時代から、彼は地下という空間や、その空間の持つ外界から隔絶されたほの暗い世界に異様なまでの興味を抱いていたからだ。バートンの世界というのは、ファンタジーでもドリームでもなく、そうした「心温まる」ものや「バラ色の未来」のようなものとは正反対の、どうしようもなく救いがたい暗さを湛えており、フィルムは、まるで底なし沼の中に沈み込んでいくように、明るさをその欠片も欠いた物語ばかりを語ろうとしているように思える。『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』では「死の舞踏」だけを見せてくれたし、『ビッグ・フィッシュ』だって、生の側よりも死の側に接近したフィルムだった。
ぼくらの目には快晴は見えず、いつも曇天だったり雨が降っていたりする。そんなティム・バートンの世界に、『ルル』を始めとする多くの物語が表象する19世紀のロンドンはまさにうってつけの場所だろう。もともと快晴の日の少ないロンドンだが、19世紀はさらに産業革命の時代に当たっていて、石や煉瓦造りの建物の煙突からはもくもくと黒い煙が立ち上っている。昼も暗いので夜が永遠に続くようだ。労働者たちの生活は厳しいものがあり(マルクスの『資本論』はその当時のドキュメントだ)、上流階級はますます冨を集める。産業革命期の黎明期であればこそ、街は汚れ、疫病が蔓延している。だから、映画ジャンルに照らしてみれば、スプラッターにも見える、汚れ血まみれのこのフィルムが描くのは、この時代の「神話的な」ロンドンそのものなのだ。映画が生まれる以前の、つまり、映像を欠いた、書かれた文字から描写された、すなわち「物語」としてのロンドン。ティム・バートンは、そうした空間に強く惹かれている。ティム・バートンの世界は、ロッセリーニ的な映画観と正反対の場所にあるから、そこにリアルな何かを求めることはできない。だからギリシア悲劇のような惨劇だけが、赤いペンキのような色彩だけが、灰色にくすんだ世界を塗り込めていく。
一見ハリウッドに典型的な巨大な幻視の世界にも見えながら、だが、ティム・バートンの提出する世界は、彼の個人性を表象しているようにしか見えない。イーストウッドのような孤高に見える映画作家とは別の場所にありながら、常に自らの幻視の世界を見せ続けるバートンの力量にぼくらはこのフィルムでも驚かされる。リアルから遠い「幻視」の「物語」であってみれば、原作ミュージカルの音楽をそのまま使用するバートンのやり方も理解できるだろう。「現実」の音楽が響き始め、その瞬間に「現実」がべつの世界に飛翔するのがミュージカルなのだから。だが、同時に、先述したとおり、このロンドンは、映画以前にあって、「現実」のロンドンと判断するほかない。ティム・バートンの世界は、かくも複雑な様相を呈しながら、映画の持っている深い可能性を拓いてくれている。