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February 20, 2008

『身をかわして』アブデラティフ・ケシシュ
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 アルノー・デプレシャンなどからその名声を聞いていたケシシュのフィルムを初めて見た。つい最近3作目がフランスで封切られたばかりだが、このフィルムは、彼の2作目にあたり、大きな評判をとったものだ。
 パリ郊外の高校。もちろん、ここには郊外集合住宅に住む多くの移民軽労働者の子女たちが通っている。「郊外問題」「移民問題」の巣窟であり、「郊外映画」というジャンルまで生まれている。ジャン=クロード・ブリソーの『かごの中の子供たち』などがその草分けだろう。麻薬、暴力といった都市の中心部からは排除された要素が、「郊外」には堆積しているというわけだ。
 だが、このフィルムには、そうした要素が垣間見えもするが、それらにはフォーカスが当たっていない。文化祭でマリヴォーの『愛と偶然の戯れ』を上演しようとして稽古に励む高校生たちの傍らにキャメラがあって、彼らの肩越しから揺れながら彼らが見つめ続けている。ここが郊外であり、郊外には多くの問題があることは、ここに住むアラブ系の高校生の主人公であることからも、彼らが話すフランス語が、アラブ系の訛りとスラングに満ちていることからも分かる。音声の面では、そうしたノイズとマリヴォダージュとも呼ばれる滑らかなフランス語との対比と断絶。その間にある信じがたい距離。それらが『身をかわして』を構成するエンジンとなっている。
 主人公の少年は、この戯曲で重要な役を演じる少女と共演したいために、アルルカン役を友人から譲ってもらう。だが、演じることに慣れていない少年は、マリヴォーの言葉に気持ちを入れることができない。彼らを指導する教師は言う。マリヴォーでは、貧乏人が金持ちを演じようとし、金持ちが貧乏人を演じようとするけれど、やればやるほど、貧乏人は貧乏人で金持ちは金持ちであることが分かってしまう。おそらく、この教師の発言は、このフィルムそのものだろう。距離を埋めるために演じれば演じるほどに、その距離の大きさを認識し、その信じがたい大きさに驚愕することになる。
 結局、少年はアルルカンを演じることができず、もと演じていた友人がアルルカン役を演じる。このフィルムは、「ルノワール/ルノワール」の一環として上映された。マリヴォーとルノワールと言えば、そしてとりわけ『愛と偶然の戯れ』とルノワールと言えば、誰しも、ミュッセの『マリアンヌの気まぐれ』と共に『ゲームの規則』を思い出さないわけにはいかない。『身をかわして』とは、パリ郊外の移民労働者街の少年少女にとっての『ゲームの規則』だ。

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