『マイ・ブルーベリー・ナイツ』ウォン・カーウァイ梅本洋一
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そのほとんどのフィルムを見て思うのは、ウォン・カーウァイのフィルムは、とても通俗的だということだ。通俗的といっても決して悪い意味ではない。通俗的な物語が、思いっきり通俗的な音楽の中で語られていて、しかも、自らを売り出す方法が通俗的な意味で、とてもうまい。こう書くとますます通俗的というのが悪い意味であると断定されそうだ。だが、通俗的という言葉をポピュラーという形容詞に置き換えてみよう。「ポピュラーな物語が、誰の耳にも忘れがたいポピュラー音楽の中で響き、その上、話題の(=ポピュラーな)スターたちと一緒に仕事にすることで、作品それ自体が話題になる」ということだ。巧妙と言ってもいいけれども、それもぜんぜん悪い意味ではない。ここまで巧妙だと感心する。『恋する惑星』の「カリフォルニア・ドリーミング」や『2046』の「スウェイ」のように、時代を画したポピュラー音楽と一緒に映像を流されると、それまで見てきたすべてのクリップが単に出来の悪いものに見えるし、本当に通俗的なのはそれらのクリップのほうで、カーウァイのフィルムは、極めて通俗的あるがゆえに通俗性を越えて、ある種の聖性を獲得しているとも思えてしまう。
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』は、そのウォン・カーウァイの新作だ。NYに住む若い女性が恋人にふられて旅にで、旅の間にいろいろな人々を見て、またNYに戻ってくる話だ。通俗的だ。そして主演には女優の仕事が初めてのノラ・ジョーンズ。脇にはジュード・ロー、ナタリー・ポートマンなど──これまた話題性のある人たちを集めている。そして音楽にはライ・クーダー。つまり、これはカーウァイにとって初めての「アメリカ映画」なのだが、彼がそれまで撮ってきた香港映画と同じだ。でも同じだけれども何かが違う。ちょっと通俗性が減少しているようだ。ポピュラーな俳優たちと一緒の仕事だし、映像はいつも通り凝りに凝っている。でも、どこか上品なのだ。それも彼が撮った唯一の上品なフィルム『花様年華』の気品とは異なる。時代劇ではなく『恋する惑星』と同様、今の話だからか。否、そうではない。撮影監督がクリストファー・ドイルではないからか。そうでもない。では何なのか。それまでのフィルムが、音楽が伝える雰囲気と映像の持つそれとが、弁証法的な関係を持っていたのに対して──つまり、音楽はほとんどアメリカのポピュラー音楽なのだが、映像は香港や中国が映っている──、このフィルムでは、映像と音楽が違和感なく、つまり、どちらがどちらのノイズでもなく、ごく自然に結び合っているからだ。もちろんジュード・ローのブリティッシュは映っているニューヨークと音響的な差異を大きく感じさせるが、でも、何となくアメリカ映画の構図にうまく収まっている。たとえば『2046』のチャン・ツィイーは、女優としてとても大きな冒険をしていると思うが、新人ノラ・ジョーンズは、このフィルムの中でとても自然に見える。それまでの彼のフィルムが映像と音声の相互の強い自己主張によってその個性を刻んでいたとすれば、このフィルムでは、そのどちらもとても収まりが良い。もちろん才気を秘めているが、この作り手がウォン・カーウァイだと知らなくても、ちょっとほろりとするメロドラマとして仕上がっている。「アメリカ映画」だと考えれば、ここしばらく見たことがなかった「小佳作」。こういう「アメリカ映画」はもっと見たい。
2008年3月22日 全国拡大ロードショー