『ニートピア2010』中原昌也結城秀勇
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『ニートピア2010』が面白い。中原昌也の代表作と言ってもいい。でも中原昌也はなにも代表しない。だいたい、代表作ってなにを代表するのか。作者の考えをか。作者の技法をか。はたまた現代社会をか。人間をか。
最近、仕事について書いてない小説は読む気がしない。それはその人の職業がなんで、どんな職場環境で、いくら稼いで、どんな生活をして、などということとは根本的に関係がない。なにで金を稼ぐかを記すことと、仕事について書くことは違う。職業とはどれだけの時間をどんなことに費やすか、つまりどんな情報の中で過ごすかということについての情報に過ぎない。そんなもの知りたくもない。仕事とは、あらゆる意味で生きることに関係するなにかだ。
『ニートピア2010』には時間が流れている。「生きているだけで、どこかでメーターに課金される。息をしているだけで、誰かから金を請求される。生きているのを、誰かが監視していて、毎度金を要求する」(「誰が見ても人でなし」)。この文章を書いた人物にもそれは言えるし、これを読むおれにもあなたにも言える。だが、それでも中原昌也はなにも代表しない。このただただ流れる時間の中、「まだ惨殺されていない人間の亡霊が未来から来訪」(「誰が見ても人でなし」)する。
彼が常に作品中で自分の創作=職業=金を稼ぐことに言及するのはなぜか。作家の人間性を暴露するためでもなければ、「堕落し切った文学者と呼ばれる類いの人々などと関わるようになって、だんだんとそのうちに形骸化したといわれ続けて久しいこの文学業界をどうにかしなければという気分になってきた」(「怪力の文芸編集者」)わけでもない。
ジャック・リヴェットは、かつて自分が書いた批評「ハワード・ホークスの天才性」を締めくくるあの名高い言葉、「あるものはある」についてこう述べている。「だが2番目の「ある」は、もしすべてがうまくいけば、最初の「ある」と同じ意味など持たない!」(「ジャック・リヴェットとの対話」エレーヌ・フラッパ nobody27に掲載)
『ニートピア2010』にあるのは、「仕事は仕事だ」だ。そのふたつの「仕事」は同じ意味など持たない!