『中原昌也 作業日誌2004-2007』中原昌也梅本洋一
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膨大な量の「作業日誌」を一気通読した。とても面白かった。私が登場するからか? 少しはそうだが、それがすべての理由ではない。何しろマメで行動力抜群の中原昌也が、金がない、腹が減った、小説を書きたくない、とぼやきながらも、同時にこの膨大な作業日誌を書いてしまうことに驚嘆した。どんなことでも書き付けてしまうプライヴェイトな日記と、この「作業日誌」はまったく反対の代物だ。酔っぱらっていても、疲れていても、腹が減っていても、金がなくても、中原昌也は、とても冷静にこの「作業日誌」を書き続けている。多くはゴールデン街の酒場で会った人の話や、その合間にタワレコやUnionでCDやDVDを買い漁ることだけが書かれている。だから、この「作業日誌」には夥しい量の固有名が溢れている。映画を見に行って、そこで人にあって、ダベって、その合間に店で物品を物色し、移動の途中で人から電話がかかり、酒場へと繰り出し、その後、カラオケに行ったり、人にメシを奢ってもらったりする生活が書かれている。ウンザリするけど本当のことが綴られている。だが──この「だが」が重要なんだ──中原昌也は、それらを書くことで、別のことについて何も書かない。それは彼の労働について、彼の恋愛について、彼のセックスについて、つまりこの彼の「作業日誌」には、彼の作業が何も書かれていない。この間、彼が書いた、これまた膨大な量の小説について一行も言及がない。彼が連載するこの「日誌」以外の批評文について何も言及がない。彼が会った女性たちと本当にしたことについて何も言及がない。つまり、この「作業日誌」は、そこに噎せ返る固有名詞によって、とても有益な情報が得られるのだが、その実、何も書いていない。「ほとんど病気」、否、「真に病気」の世界が綴られているが、その筆致が極めて冷静であるがゆえに、なんだか恐ろしい気がしてくる。重要なこと──もちろん何が重要かなんて誰にも分からないのだが──を何も書かないために、膨大な量の明解な文章が垂れ流されている。そう考えてみると、ここに書いていない重要なことさえ、ぜんぜん重要ではなく、ここに書いてあることと同じように、無意味なことなのだ、とも思えてくる。これは凄いことだ。言葉なんてぜんぜん重要ではない。人と会うなんてぜんぜん重要ではない。重要なことなんてない。平気じゃないけど「ぜんぜんオッケー」! 『ニートピア2010』もこの「日誌」も等価値だ。同じだ。この膨大な「作業日誌」は、リヴェットの『アウト・ワン』と同じだ。つまり、「単なる遊び」だけど、終わりのない人生みたいなものだ。中原昌也は凄い。そう誉められてもぜんぜん嬉しくないだろうが……。