『石の微笑』クロード・シャブロル結城秀勇
[ book , cinema ]
中原昌也『作業日誌2004-2007』の中では、『石の微笑』のタイトルの後ろに「★」(国内でソフト入手困難を示すマーク)が着いていた。DVDが出るのを待っていたのだが出ないらしい。ということで三軒茶屋中央劇場に足を運ぶ(余談だが二本立てのもう一本は『タロットカード殺人事件』。ウディ・アレンとクロード・シャブロル、アガサ・クリスティとルース・レンデル、スカーレット・ヨハンソンとローラ・スメット。なかなか興味深い対称性だ)。
昨年のベストに挙げた作品の中でも、『石の微笑』ほどむやみやたらに繰り返し見たいという欲求に駆られる映画は他にない。もちろん、この映画のあらゆるショットの適切さ、情報の提示の効率性などの素晴らしさがもたらす安心感もその一因だとは思うのだが、やっぱりその根底にあるのはこの映画のとらえどころのなさなのだ。車内で電話するブノワ・マジメルを微動だにせずじっと見ている(のかどうかも定かではないが)レストランの男、時折カメラの前をふらりと横切り最後に公園で犬のクソを踏むスキンヘッドの男、そしてまるでゾンビか『ボディ・スナッチャー』の憑依された人間かといった具合に辺りをうろつくエキストラたち、あれらはいったいなんなんだ。ローラ・スメットが生い立ちを語るとき、また愛を証明する条件について語るとき、(『ゾディアック』のロバート・ダウニーJr.の背後にあるTVゲームの音のように)背後でうごめく波の音やヘリコプターの音はいったいなんなのか。画面に集中すればするほど、そこで語られている内容に対して「気もそぞろに」なっていく。
アンソニー・ヴィドラーは『歪んだ建築空間』の中で、ヴァルター・ベンヤミンが用いた「ディストラクション(Zerstreuung)」という言葉について考察している。散乱、放心、気晴らし、娯楽などを意味するこの言葉をベンヤミンは、集中の状態で芸術作品を眺める伝統的観客と、集中を欠いて芸術作品に熱中する大衆的観客との対立に当てはめて用いたと彼は語っている。「芸術作品に対する個人の観察者の熱心な目も、習慣と慣用によって、言わば『平常通りの仕方で対象を注目する』という習性の中に四散してしまう。ここでは娯楽(ディストラクション)は、並外れた快楽を求めようという前向きの追求というよりもむしろ、習慣的行動の状態にある主体に共通する放心状態を表象している。映画に向かって、『大衆は審査官であるが、放心した審査官(アイン・ツェルストロイター「放心者」)なのである』」(『歪んだ建築空間』)。
以上のようなコンテクストにおいて、この映画が持つ根元的な「娯楽性」に私はやられてしまっている。もしDVDが発売されたら、あの決して魅力的とは言い切れない、硬直しながら同時に絶えず変化し続けるローラ・スメットの顔を、昼夜を問わずぼんやりと眺め続けてしまうだろうに。