「音楽に批評は必要なのか」佐々木敦vs湯浅学with南部真理宮一紀
[ cinema , talk ]
佐々木敦によって95年以降に書かれた数々のライナーノートがこのたび一冊の書籍に纏められ(『LINERNOTES』、青土社)、その刊行を記念したトークイベントがジュンク堂新宿店内のカフェにて開催された。
次から次へと紡ぎ出される魅力的な固有名詞の数々と、話者たちの口ぶりの軽やかさも相まって、危うくそこにある切実さが耳からこぼれ落ちていきそうになるのだが、「音楽に批評は必要なのか」と題されたこのトークイベントに相応しく、いくつかの重要な問題が提起されていたように思う。
新刊本の帯文で「ライナーノートは批評である」と高らかに宣言してみせた佐々木敦だが、同時に彼は、ライナーノートが現在置かれている一般的な状況を「もはやあってもなくても構わないけど、とりあえずある」と位置づけ、その幾分か解放された自由な空気の中で、ではいったい何をどのように書くのか、という問題について語っていく。LPもしくはCDと不可分であるがゆえにそれ単体で読まれることが決してない特殊なメディアとしてのライナーノートが、今まさに一冊の書物に編纂されて私たちに読まれようとしているが、その微妙だが決定的な偏差の中にこそ佐々木敦らしさが垣間見える。思えば、彼の主宰するHEADZ、あるいは彼の刊行する雑誌「エクス・ポ」もまた相似形のズレをその内に抱え込んでいるではないか。「マージナル」と言ってしまえばそれまでだし、それを「生まれつつあるものの傍ら」と言い換えてもよいだろうが、佐々木敦の眼差しの先にある場所はいつもにわかに活気づいている。
一方の対談者・湯浅学は突飛で愉快な喩え話を幾度も繰り出しつつ、しかし論点を的確に元のレールに回帰させていく。それはまず「枕詞」を一行書いて、その自らに課した縛りの中で原稿を書き進めていくという彼の文章スタイルそのままだった。ともすると大いなる脱線に終始し、本題に入らないまま原稿が終わることもあったと笑う湯浅だったが、もちろん私たちは彼のスタンスから多くを学ぶべきである。アルバム発売のタイミングや業界のしがらみなどに左右されがちなライナーノートだから、書きたいときに頼まれず、書きたくないときに頼まれることもあろうが、書きたいときに頼まれるという幸福な一致を見たからといって、通常の7倍もの分量のライナーノートを喜び勇んで書いてしまうような人はそうはいない(本人はそれでも書き足りなかったと言っていた)。「僕はフィクションを書いている」と湯浅が言ったとき、それは彼が「en-taxi」(扶桑社)で連載している小説(「蛇の道は鰻——あなのかなたに」)の話ではなく、音楽アルバムのライナーノートの話であった。ライナーノートを「批評」とする佐々木と対比すると面白いが、それらは案外同じことのようにも思われる。
帰宅して早々にファッツ・ドミノの『偉大なる足跡〜ファッツ・ドミノ・トリビュート・アルバム』(キングレコード)をamazonで注文したのは、まず最初に湯浅学による75枚のライナーノートを読むためである。