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May 2, 2008

『さよなら。いつかわかること』ジェームズ・C・ストラウス
田中竜輔

[ cinema , sports ]

 戦地に赴いた軍人である妻の死を伝えられた夫が、ふたりの娘とともに自動車に乗って行くあてもない旅に出る。「Grace is gone」という原題は慎ましくも完璧にこのフィルムの物語のほとんどすべてを語ってくれている。しかし、ジョン・キューザック演じる夫の妻であったこの「グレース」という女性について、私たちはほとんど何も知ることは出来ない。冒頭に重ねられた遠距離電話での日常会話、そして自宅の留守電用に録音された短い挨拶くらいのことでしかない。いったい彼女がどんな母親で、どんな女性で、あるいはどんな恋人だったのかについて、私たちはほとんど知ることはない。それゆえに、私たちはキューザックの哀しみに同一化することはできない。いや、それはむしろ夫を演じるキューザックにすら不可能に近いことなのではないか。
 だがキューザック本人が言うように、そんな覗き趣味めいたような興味こそ本当にどうでもよいことだ。彼ら夫婦の最後の夜のベッドの様子など、私たちが知るべきことなのではない。このフィルムは、人のセックスを笑うような戯れなど微塵も必要とせず、まったき「誰か」を失うことについて、ただ静かに時間を重ねていく。父と娘たちの旅になんら特別なことは起こりはしない。せいぜい不良に誘われて煙草を口にしてみたり、禁じられていたピアスを保護者同伴で試してみたりするだけのことだ。車窓から見えるのはマクドナルド、ガソリンスタンド、サービスエリア、ショッピングセンター……日本の地方都市と比べてもほとんど変わり映えのしない匿名的な風景だけがそこにあり、一応の目的地であったはずの遊園地でさえも似たようなものでしかない。どこでもいい場所、いつでもいいような時間、だがそれゆえにそこにしかない時空があるに過ぎない。重要なのはその相貌やディテールなのではない。
 どこまで行っても何もなく、何がなくなってしまったのかもわかることはなく、しかしたしかにこの世界から確実になくなってしまった何かがあるのだということ。ジョン・キューザックの涙はそのために流されたのであり、12歳の姉が気づき始めているのはそのことなのではないか。そこに絶望はないかもしれないが、同じくらい希望はない。しかし、ここにはささやかで小さな信仰がある。毎日、定まった時間に鳴り響く安っぽい「音」を聞くことで、幼すぎる妹は常に失われていく何かと結びつく些細な瞬間を実現している。救済はないかもしれない、だがそれはまぎれもなく前進のための契機であるはずだ。
 このフィルムはある固有の「喪失」そのものから始まるのではない。その端緒に過ぎないあるひとつに触れ(たように見せかけることで)、その背後にざわめく無数の存在に気づくことに始まる。つまり、ここにあるのは探求なのだ。過剰さを排し、ひたすらに一音一音の響きを確かめるようなシンプルなメロディを紡ぐイーストウッドの音楽のように、このフィルムは、常に失われ続けているものに気づくこと、その稀有な瞬間を捉えようとしている。それゆえに『さよなら。いつかわかること』は「時間」そのものについてのフィルムであり、そして「私」と「あなた」についてのフィルムなのである。

シネスイッチ銀座、シネマスクエアとうきゅうほか全国にて公開中