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May 22, 2008

爆音映画祭2008 佐々木敦レクチャー
『ヌーヴェルヴァーグ』ジャン=リュック・ゴダール
田中竜輔

[ cinema ]

 ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』に先立って行われた佐々木敦氏によるレクチャーは、「現象、あるいは運動としてのヌーヴェルヴァーグとは、見ること、聴くことの不可能性をポジティヴに捉え直すためのものであったのではないか」という仮説から始まった。映画音楽と現実音の混交とは、見ることと聴くことにおける不可能性の極値であり(つまり現実において「絶対に見えないはずの音」と「絶対に聞こえないはずの映像」が映画においては可能になるという事態)、ヌーヴェルヴァーグ、そしてその中でもゴダールという映画作家が徹底するのはこの「不可能性」によって初めて可能になるものとしての映画の姿であるのではないか。およそこのような内容がこの日のレクチャーにおける主題であったように思う。
 『カルメンという名の女』において、カットの切り替わりに呼応して微妙な階層を織り成しながら繰り返し同じ旋律を響かせるトム・ウェイツの声のように、映画の映像/音とは、現実そのものの連続性から必然的に断ち切られざるを得ない、有限であることを強いられた断片にほかならないのだが(この「有限」という言葉からは昨年の廣瀬純氏による講演の中の、有限個の要素からなる宇宙=シネマからなる無限の組み合わせとしての作品=フィルムという、ドゥルーズ『シネマ』の要約を思い出す)、しかしその断片の編集=リミックスの結果によって、映画作品とは、現実にはありえない知覚を、スクリーンという現実に生み出すことをまた可能にするのであり、それゆえに映画は現実の断片でありながらも、ときに現実を凌駕する豊かさを生み出しうる。ゴダールの豊かさとは、まさしくその現実とその現実の断片との距離において生まれるものなのだ。
 いくつかの作品を参考上映とともに進められたこの日のレクチャーの説得力は、爆音上映という形態そのものの批評性もあいまって驚くべきものであったように思う(佐々木氏はこの日が爆音初体験とのことだったが、自身もその驚きを率直に表明していた)。だがあえてこの日のハイライトを述べるとすれば、やはりジャン=クロード・ルソーの一撃にほかなるまい。随分前に上映された機会に見逃して以来、ずっと気にかけていた作家だったという個人的な感情もあったのだが(ルソーに関しては前日にレクチャーを行った赤坂大輔氏のサイト「New century New cinema」に詳細な批評がある)、この日参考上映の中に織り込まれた『Faux depart』の凄さにはほとほとやられてしまった。監督であるルソー本人がホテルと思われる部屋の中で座っていたり、窓を開けたり、目覚まし時計を触ったり、こちらを向いたり、あるいはただその場を歩き回っているだけの作品なのだが、そこに介在するあらゆる音の処理が本当に異常なのだ。外部から進入する音、あるいはふとした瞬間に鳴り響いた些細な音が、増幅し反響することで、静謐さそのものを体現しているように見える映像から驚くべき運動を抽出している。ここには、まるで昨年体感したSUNN O)))のライヴや、あるいは樋口泰人氏のboidでの日記で紹介されていたジョン・フェイフィーの『The mill pond』で聴くことができたような、複雑かつ繊細な音像とでもいうべきものの強度が可視化された世界があったように思った。nobody27号でのインタヴューの中で樋口氏は、爆音というネーミングで想起されがちなパワフルな音響だけではなく、より小さくアンビエンスの音が映画を作っているのだというところを聞いてほしいというように語っていたが、ルソーのこのフィルムには、まさしくその繊細さそのものによって屹立する映画の力が漲っていた。
 本日22日には大友良英氏のレクチャーと、氏が音楽を担当した黒沢清のテレビ作品『風の又三郎』の上映が控えている。(私見ではあるが)このルソーのフィルムにきわめて似た質感を持った『風の又三郎』の映像と音響に音楽家として挑んだ大友氏のレクチャー、そして爆音上映が今から楽しみで仕方ない!

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