『PASSION』濱口竜介結城秀勇
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「東京藝術大学大学院映像研究科 第二期生修了制作展」が渋谷ユーロスペースで開催されている。昨年に引き続き、すべての作品の技術の高さに目を見張るが、濱口竜介監督『PASSION』には、そうした水準を遙かに超えた感銘を受けた。5/29(木)の上映には、おそらく会場の客席は観客で埋め尽くされるだろうが、それだけではないより多くの人の目に触れるべき作品であるように思う。
30歳を目前にした幾人かの男女。あるカップルは結婚を、あるカップルは出産を控え、またそれとは別に男女間のトラブルが転がっている。こんな風にストーリーを説明したところで極めて月並みでありふれた映画にしか思えないかもしれない。事実それは、とても月並みでありふれた言葉、そしてあまりに率直すぎる言葉たちによって埋め尽くされている。そしてそれゆえ(逆説的ながら)私たちは登場人物の誰ひとりに対しても完全な自己投影を図ることができないことに気付くだろう。
それが技術的な欠陥などではなく極めて明確な演出によるものであることが、中学校教師であるヒロインが授業を行う突出したシーンで誰の目に明らかになるだろう(登場人物がなにか仕事をしているのはこの場面だけだ)。そこでは「暴力」にまつわる対話が行われる。壇上に立つひとりの人間と、それと向き合う複数の生徒たちという極めて明確な権力構造が、より根元的な暴力によってずたずたになってゆく有様には、目を見張るばかりだ。そしてこのシーンは、この映画の残りのすべての部分の根底に流れているものを垣間見せているに過ぎない。先程、登場人物の誰にも完全な自己投影をすることができないと書いた。私が登場人物のひとりだったなら、こんな人たちとなぜ同じ場所にいるのか、疑問に思うことだろう。そして実際に彼らはそのことに疑問も抱くし、嫌悪感を覚えもする。なぜいまここにいるのか。その問いは、意志や欲望を遠く離れたところから発せられるのだということを、この作品は115分という極めて適切な長さを用いて描き出す。
最後に極めて個人的なことなのかもしれないが、どうしても書いておきたいことをひとつ。私にとって極めて重要なことは、この映画が横浜で撮られたということだ。それを言ったら同時に上映される何本もの映画がそうなのだし、制作的な面からそうせざるを得なかったという事情もあるだろう。それでもこの『PASSION』は、かつてこの街が港町であった頃に誇っていた都会性を映画内に復活させ、同時に現在のこの街にある日本中の地方都市を凝縮したかのような没個性を滑り込ませている。暴露でも告発でもないやり方で、ただ積み重なるショットが互いに批判しあうようなやり方でゆっくりと着実に。それはこの映画の人物たちを見つめる視線とまったく同様なやり方だ。
そして115分の上映時間が過ぎ去ると、何もなかった場所に、確かに映画がある。そのことに感動せずにいられない。
5月30日まで、渋谷ユーロスペースにてレイトショー上映中