『彼方からの手紙』瀬田なつき高木佑介
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不動産会社に勤める吉永と彼の前に現れた少女ユキは、ユキの父親がかつて住んでいたという思い出の家を目指して旅に出る。我々にはその思い出の家が具体的にどこにあるのかは告げられない。真っ赤なニット帽を被った男と真っ白な服を着た少女は、彼らが出会った横浜から「どこか」へと向かって旅立つのである。
このような単純明快なストーリーを持つ『彼方からの手紙』は、我々がかつてヴェンダースの映画で観たような風景とリズムを呼吸しているかのように、移動と停滞、そして過ぎゆく風景と時間を、その旅の行程でスクリーンに積み重ねていく。二人が乗り込んだ真っ黒なランド・ローバーから見える風景は、彼らが向かう「どこか」が少なくとも東京方面にあることを我々に教えてくれるだろう。夜の首都高、そこから見える東京タワー(ビルの間から顔を出す東京タワーは普段とは違った印象を与えてくる)。夜の闇に浮かび上がる街のイルミネーションや葛西臨海公園の観覧車。こういったシーンの積み重ねが空間と時間を、つまり映画を確実に形成していくことにあらためて驚きつつ、我々はいつしか彼らの風景(=東京)を見つめるまなざしが、他でもない我々自身のものと同じであることに気づかされるだろう。つまり、「どこか」へと向かう旅に出たのは、吉永とユキと我々自身なのだ。
このような一本のロード・ムーヴィーとして成立し得ている前半部を現出させつつ、さらに瀬田なつきはその独特なリズムとテンポを強めていくかのように『彼方からの手紙』の映画的世界を広げていくだろう。当面の目的地であったはずの「どこか」が一体どこにあったのかこの映画は語らない。そして、匿名的な「どこか」から横浜へと戻る「帰還」の物語を『彼方からの手紙』は描き出す。つまりこの映画は、本当にどこにあるのかわからない異質な空間へと導かれて行った人々が、再び自分たちの住む世界に帰ってくるという往復運動の物語なのだ。この不可思議な往復運動。彼ら、そして我々は一体どこに行っていたのか。ひとつ確かに思えるのは、我々がこの往復運動(=映画)を終えたとき、瀬田なつきという映画作家の存在をその記憶に深く刻んでいるだろうということである。
5月30日まで、渋谷ユーロスペースにてレイトショー上映中