『ランボー 最後の戦場』シルヴェスター・スタローン結城秀勇
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先月号のキネマ旬報の星取コーナーでは4人の評者がそろってこの映画にひとつ星をつけていた。その論旨は総じて殺人描写が残酷すぎて悪趣味だ(北小路隆志は、そこから政治的な意図を汲み取ることが不可能だというようなことを書いていた)ということだった。
いったいこの映画のなにを見てるのか不思議だ。この映画の極めて明確な政治的態度とは、虐殺はもちろん醜悪だし、なおかつそうした行為を行う最低な人間を殺す場合にも殺人は常に陰惨だ、ということに他ならないからだ。どんなイデオロギーに基づいていようとも、腹をかっさばいたり銃で脳みそ吹っ飛ばすのがきれいなわけがない。この映画を見たうえで、殺人描写が残酷過ぎるなんて言う奴は、ランボーに命を助けられた後で「殺人はよくない」と言い張る医者と同じじゃないのか?
ヴェトナム戦争下(後)の状況に現在をなぞらえるかのような映画が数多く公開されるようになってきたような気がする昨今だが(『大いなる陰謀』『さよなら。いつかわかるまで』あるいは古いが『ザ・シューター/極大射程』なども含んでいいと思う)、ヴェトナムが生んだ最大のヒーロー・ランボーの最新作においてはそうした相似はさほど強調されていない。彼はなぜビルマにいるのか、いったいヴェトナムからどれだけ時間が流れたのか。老いこそがテーマであった『ロッキー・ザ・ファイナル』と同年に、これほど老いから遠く離れた肉体も作り出してしまうとは。もはやあれは特定の個人ではなく、あらゆる時代あらゆる戦場に現れる幻影なのではないかとさえ思う。
現代もまた戦時下であるのだという認識から先程名前をあげたような映画が作られるようになったとすれば、ランボーにとって戦時下でない時代などなかったのである。その最新作がいま撮られる意義とは、ヴェトナムの失敗から現状に活かしうるなにかを見出すことなどではなく、ヴェトナム以降常に失敗をし続けてきた男の現時点におけるベストパフォーマンスに刮目するということをおいて他にない。不和を起こす原因にしかならなかった集団という構造が、ランボーの機銃射撃の開始によって一気に、目の前の敵を倒すという目的にむかって全体(前述の医者でさえも)がひたすら機能的に活動し始めるのを目撃するというのがこの映画の意義だ。
ペキンパーの『ワイルドバンチ』は西部劇に終止符をうったが、『ランボー最後の戦場』(原題はただ、“JOHN RAMBO”だ)は新たにランボーを開始する。いまこの選択をしたスタローンは明らかに正しい。
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