『ぐるりのこと』橋口亮輔梅本洋一
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『ハッシュ』以来6年ぶりの橋口亮輔の新作。『二十歳の微熱』以来、彼のフィルムを見続け、当初はどうしても目を背けたくなるようなナルシズムに閉口したこともあったが、それが次第に稀薄になり、「登場人物」という映画において必須の他者に眼差しが向かうようになる様を観察してきたつもりだ。
『ぐるりのこと』のすべては、子どもを失ったカップルの欠落と再生までの長い道程である。このフィルムを見終わって多くのことを考えた。1992年から2001年までの出来事の多くが、夫を演じるリリー・フランキーの法廷画家という職業によってこのフィルムに介入してくる。オウム真理教事件を初めとする多くの事件の法廷を描くことで、その登場人物を肖像画にする作業を担当する法廷画家というアイディアは優れていると思う。必ず内部に向かう欠落の哀しみが、法廷──それはおそらく社会の「鏡」なのだ──によって、外部に開放され、法廷で聞こえてくる多くの声と主人公たちの哀しみが二重写しになるからだ。その意味で、このフィルムで橋口は、より強く外部を希求している。
同時に、当初から巧みだった映画的な演出が、このフィルムでは、より意識的に、より洗練された形態で顕在化している。10年間を生きる夫婦は、この間に、衣裳を変え、髪型を変え、住居を変える。演出とは、何も「真実らしさ」をどう装うかを伝えることではなく、何を着るのか、どんな髪型なのか、どんな場所に住んでいるのかを明瞭に示すことで成立することをこの映画作家は、本能的に知っているのだろう。さらに、より重要なのは、このような日常生活を描くフィルムにあって、もっとも重要なのは、何を食べるかという一点であって、演出は、その点に収斂しているように見える。冒頭に出てくる居酒屋から、心を閉ざした妻が心を開くきっかけにもなっている白米が炊けてくる様に至るまで、そして、夫婦が旅した名古屋の土産である「ういろう」に至るまで、詳細に厳密に、そして決定的に食べ物が選ばれている。
閉ざされた内面を外部に向ける行為は、もちろん、仕事である。長い時間をかけて成立する作業の詳細が、最後に結実する姿は感動的だ。
そのように周到に演出され、外部に向かう有様が「映画的に」語られていることや、職業俳優ではないリリー・フランキーの演技を越えた「存在」に賞賛を贈りながらも、それでもまた、このフィルムはどこかで閉じているように感じられる。家族の内部に遡航していく多くのフィルムに対して、このフィルムが雄々しく外部に向かおうとしているのにどこかで閉塞するように感じられるのは、なぜだろうか。その疑問に解答をさがすのは難しいのだが、おそらくそれは、このフィルムに、絶対的な外部であるランドスケープが欠けているためだろう。
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