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June 15, 2008

『ミスト』フランク・ダラボン
結城秀勇

[ architecture , cinema ]

 どこかからほとんどなんの理由もなく異生物がやってきて人々が右往左往するこの映画を見て、『クローバーフィールド』を思い出した。この2本を私はまったく評価しないけれど、私たちがなにを見ているのかを(逆説的に)考えさせられた。
 閉鎖空間となったスーパーマーケットの、ファサードに貼りめぐらされたガラス越しに襲来する怪生物を評して、女性教師は次のようなことを言う。それらはいるはずのないもの、私たちの知る世界の原理とは異なったところからやって来たもの、言い方は違うがなんだかそんなようなことをだ。だが、そこで我々が目にするのは本当にそんなものか? 多少でかい虫と鳥じゃないか。不気味だとはいえ、捕食の衝動に駆られて活動しているようだし、叩いたり撃ったりすれば死ぬ。充分に我々の原理で理解しうる生物だと思う。
 もちろんこの映画の主題はガラスのスクリーンの向こう側ではなく、あくまでこちら側なのだと言うことはできるだろう。「異世界」の陥入によって変質したこちら側の情勢だと。でもだとしたらなおさら、「異世界」をみんなで見ることなしに、こちら側の変質を描くことはできないのではないか。
そこでこの映画の冒頭におかれたミスディレクションが重要になる。はじめに霧がやって来る→中から血だらけの男がやってきて言う「霧の中にいる何かがジョンをさらった」→みんなは「霧=ヤバい」と考えはじめる。でも霧と霧の中の何かは同じじゃない。そのことには誰もきちんと言及しない。先程、やって来るのはただでかい虫と鳥だと書いたが、別にそれ自体が悪いわけじゃない。ただでかい虫と鳥に過ぎなくても、それをみんながきちんと見たか否かが非常に重要なのだ。ここで問題にしているのは誰もなにも見てないじゃないか、ということだ。ガラスのスクリーンを前に一列に並んだ人々は自分の見たいもの、信じることのできるものしか見ていない。スクリーンに押し寄せるひとつの現象は、こちら側にそれに対するひとつのリアクションを用意させることはなく、人々にまったく非効率的な(かといって完全なカオスなどではない、いくつかのパターンに簡単に分類できるような)混乱を引き起こす。
 そしてなにより、もっとみんなに見られるのに適しているはずのあの「巨大ななにか」はシャッターの裏で、あるいはスーパーから遠く離れた荒野で、ごくごく限られた選ばれた人間にだけ目撃される。『クローバーフィールド』を想起させる点はここだ。いろいろある類似点ははしょって肝心の部分を述べれば、「巨大ななにか」を見ることができるのは特権的な視線だけであること、そしてそれがどこかプライベートな視線だということだ。そしてCGによって自由自在に動くことができるはずの「巨大ななにか」は、実際にはほとんど動かない(派手に動き出すとしたらその時プライベートな視線はそれを追いきれない)。「巨大ななにか」の運動を捉えた近年における例外的な作品『ベオウルフ』ついても言及が必要だと思うが、ここではスペースがない。
 もちろん以上の点を踏まえて構成されているのだろうこの映画のラストには素直に感服したけれども、しかしそれまでの部分に全然納得がいかない。それってまるで、「巨大ななにか」をちゃんとみんなで見ないで、ホームシアター的な特等席で見ちゃった奴は不幸になるってことじゃないか? 映画側の態度はそういうことなんだろうか? 私たちは「巨大ななにか」をみんなでちゃんと見ることはできないのか?

渋谷シアターN、新宿武蔵野館などでロードショー中