『イースタン・プロミス』デヴィッド・クローネンバーグ梅本洋一
[ cinema , cinema ]
このフィルムの中盤に知的障害の16歳の少年が、チェルシー戦のチケットを手に入れてとても喜ぶシーンがある。スタンフォード・ブリッジと思われるスタジアム近辺にはサポーターがたくさんが詰めかけている。おそらくチェルシー対アーセナルのロンドン・ダービーだろう。
物語と骨相とほとんど関係のないこのシーンは、実へこのフィルムにとってとても重要なものだ。クローネンバーグは、スティーヴン・ナイトによるシナリオで一番興味を引いたのは、ロンドンのマルチカルチュラルな背景だと言っている。このフィルムには、黒い革ジャンに身を包んだ「法の泥棒」と呼ばれるロシアのマフィアたちが徘徊している。ロンドンにあるロシア・レストラン「トランス・シベリアン」が彼らの本拠地だ。ロシア語と英語が会話に混合され、重苦しいロンドンの空気が、彼らの子音の強いアクセントでますます重苦しくなっていく。テムズ川も少しだけ顔を見せ、その向こう側にビッグベンも霞んで見える。「法の泥棒」たちは、最新型のベンツでロンドンの夜を蠢くように走り回る。そんな街でひとりの少女が殺される。彼女は妊娠しており、女の子を出産した後、この世を去っていく。その場に立ち会ったトラファルガー病院勤務の助産婦が、ロシア系のアンナという女性だ。
ロンドンの売春組織で働く女性はほとんどロシアを初めとする東欧系だと言われている。チェルシーというプレミア・リーグのトップチームのオーナーは、ロマン・アブラモビッチ。言わずと知れたロシアの石油王だ。彼はチェルシーを「ポケットマネー」で手に入れ、有力選手を次々に買い漁ったことでも知られている。そして、つい先日も、ユダヤ人人脈で招聘した元イスラエル代表の監督アブラム・グラントを、チャンピオンズリーグ準優勝に導いたのに更迭し、限ポルトガル代表監督のスコラーリを「買い漁った」ばかりだ。彼は現ロシア代表チームにも「投資」し、フース・ヒディンク監督のサラリーも彼から出ていると噂されてもいる。
チェルシーは、ロンドン在住のロシア人たちにとって頂点の存在であり、羨望の対象でもあるだろう。ロンドン撮影のフィルムで、ぼくらの耳に常に響いているブリティッシュの音響は聞こえてこず、「泣くようなヴァイオリン」の音色と暗い夜の底に沈むようなロシア語の子音が次第にこのフィルムに横溢するようになる。犯罪、捜査、タトゥー、ボルシチ、KGB──ここはいったいどこなのだろう。ロシア的な重さの極みの中にあるロンドン。それこそが『イースタン・プロミス』の舞台だ。音響の破擦音ばかりのノイズは、「法の泥棒」の付き従う男たちの身体に刻まれたタトゥーと同じように、言語的な意味からは次第に遠ざかり、その波動は次第次第にこの世界全体に広がっていくかのようだ。広がっていく破擦音と、そしてタトゥーと、ロシアン・マネー。彼らの身体に刻まれたタトゥーの模様のようにそれは身体を、世界を覆い尽くすようだ。
日比谷シャンテシネ、シネ・リーブル池袋ほか全国ロードショー中