にせんねんもんだい in “nhhmbase presents13”@SHIBUYA-O nest 6/21山崎雄太
[ book , music ]
にせんねんもんだいで踊れない(“にせんねんもんだい”は、上手にギターの高田さん、下手にベースの在川さん、真ん中にドラムの姫野さんという、女性だけのスリーピースという編成)。
高田さんの、短いモチーフを慎重に重ねていく姿は、聞こえてくる電気的な音とは裏腹に非常に肉感的な、職人的な「作業」を感じさせる。それは建具師が丁寧に金箔を並べていくような張りつめた「作業」であり、にせんねんもんだいが演奏を始める際にハコ全体を包む、自らの呼吸をも忘れさせる集中を観客から引き出す極めて優れた「作業」である。3秒ほどの短いモチーフをひとつエフェクターのなかに刻み付けることが出来れば、それは「結果」としてひとつの印となり、前へ進むことが出来るはずだ。「作業」を繰り返せば「結果」が重なる、気づけばそれらの「結果=音」は僕らの信頼を完全に勝ち取って、虜としている。これは全く優れた仕事で、優れた人生でもあるだろう。優れた「作業」を一途に続ける姿に言葉を失ってしまう。だからにせんねんもんだいには本当に頭が上がらない。高田さん、ありがとうございます、稚拙な文で、申し訳ない。精進します……。
上手の高田さんの作業が完成してくれば、ステージ真ん中に陣取る〈恐るべき子供〉姫野さんのバスドラムがハコ全体の緊張を打ち破り獰猛に産声をあげる。髪を激しく揺すりながら頭を左右に振り、ハイハットをひたむきに文字通り連打する姿はそれだけですでに僕らの胸すら打たずにはおれないのだが、さらにこのハイハットが「人のため」になされていることこそに僕らは感動する。あれほどの長時間ストイックに、それこそ身を削って厳密に打ち続けられるハイハットは、すなわち音楽を持続推進させるもの、同時に他の二人に向けられたものであり、つまりは「人のため」の「作業」なのである。ドラムのリズムで(理想の)曲を一緒に作るのではなく、身を粉にして何か(=にせんねんもんだい)を生かすこと。この母性という言葉すら与えたくなる圧倒的な優しさに僕はまたどうしようもなく惹かれてしまうのだ。姫野さんの厳然たる決意を前に、どんな文章を書き連ねれば良いだろう? どう生きれば良いだろう? 続けることだ、打ち続けること……、それがドラムでもキーボードでも一向構わないが、最後「人のため」になってくれればとまさか言えやしないが思ってしまう。こうして深夜キーボードを打つ意味を姫野さんは少し教えてくれる(いつまでも「ため」とするべき「人」が健康であるとも限らない)。魅了されつつも目を背けたくなるほど真摯にハイハットを打ち続けていれば、隣の在川さんも助けてくれるだろう。耳の奥にこびりつく、四弦……。三曲目の何かが取り憑いたような秀抜のドラムソロのエンディングを、ギターとベースは一定のコードを繰り返し弾くことで暖かく迎え入れる。即興からコードに戻り出した高田さんと在川さんの目配せなど愛情に溢れた実に羨望の瞬間である。にせんねんもんだいはにせんねんもんだいによって生かされている。
だからまた今日も素晴らしい音楽を前にまず打ち震えてしまい、踊ることが出来なかった……。