『ハプニング』M・ナイト・シャマラン結城秀勇
[ cinema , sports ]
科学の教師であるマーク・ウォルバーグが(その設定が既に驚きなのだが)、授業の中で子供たちに原因不明のミツバチの失踪について語っている姿は予告編でも見ることができる。恥ずかしながら、私は数年前から実際に世の中を賑わせているこの事件についてまったく知らなかった。Colony Collapse Disorderと呼ばれるこの現象は、『ハプニング』の中で語られるとおり、ミツバチの群れががある時突然一匹の死骸も残さず消失してしまう、というものだ。「なぜミツバチはいなくなるか」というウォルバーグの問いかけに対し、子供たちは様々な推測を立てる。環境破壊、公害、温暖化……。一時現実にも、携帯電話の電磁波がその原因なのではないかなどとまことしやかに報道されたようだが、正直本当かよと思う。まあ、この映画でも誰も彼も携帯電話をかけてるし、携帯電話は主人公夫妻の不和を象徴するサインでもあるから、もしかしたら本当に携帯電話が悪いのかもしれない。話はそれたが、セントラルパークで起きた事件のためにウォルバーグが授業を中断して教室を出てくと、残された黒板の上には「ミツバチが地球上からいなくなると、人間は4年で絶滅する」というアインシュタインの言葉が書き込まれている。いったいどんなコンテクストで発せられた言葉なのかは不明だが、この映画のその後の展開を暗示するような言葉である。……などと早合点するのはたやすいが、この映画を構成する原理は、実はその前にひとりの少年の言葉を借りてあまりに明白に示されている。自然界の出来事を完全に説明する論理などない、のだ。ミツバチが消失するという現実に対して、我々がその後に用意できる論理がいかに浅薄であることか。同様に、風が吹くと人が死ぬ、そのこと自体のインパクトを上回る「原因」などこの映画には存在しない。
ウォルバーグをはじめとして様々な人間がこの現象に対する憶測を巡らす。どうしたらこの現象から逃れられるのか、そのためになにをすればよいのかと。人混みを避けること、死体のある方には行かないこと、あるいは植物に話しかけてさえみるということ。そうした選択の積み重ねの中で、次第に明らかになっていくのは、ここで展開しているのが「脱出」という極めて能動的ななにかではなく、もっと受動的にいかんともしがたい現実を堪え忍ぶ「生存」とでも呼ぶべきようなものだということだ。繰り返すが、ここには「原因」などなく、それはすべてがあまりに明白であるからだ。それが凄惨な死とどんな関係にあるかはわからないが、私たちは風が吹くのを、あるいは愛という感情の色彩すらも、目撃する。
シャマランは事後的にまことしやかに語られる「原因」をあたかも前提のように置くことを放棄する。そして息苦しいほどの明白さの中で、私たちはなにもできずにただひたすら(本当に一連の出来事なのかもわからない)「なにかが起こる」のを目にする。まさにあのhappeningにとらえられた人々のように、映画館の暗闇の中で運動感覚も時間感覚すらも失って「生存」の危機に晒されること。決して現実に先行することのできない映画というジャンルにおいて、これほど倫理的なことはないのではないか。