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August 1, 2008

『レディ アサシン』オリヴィエ・アサイヤス
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 『デーモンラヴァー』のコニー・ニールセン、『CLEAN』のマギー・チャン同様、『レディアサシン』のアーシア・アルジェントもまたひとりぼっちだ。夥しい物量と運動に支配されている都市の空間の中で、彼女たちは自分自身を証明することができない。自分がどこに属していて、そして自分を護ってくれるものがどこにあるのかを、彼女たちは知ることができない。状況は彼女たちに無関心でありつつ彼女たちを束縛していて、彼女たちはそこでもがき続けている。目の前で起こる状況が何であるかなど彼女たちには理解することは求められておらず、彼女たちに許されているのはただその状況に翻弄され、それに対して無力な抵抗を繰り返すことだけだ。
 アーシアは元恋人を殺す。しかし、彼女は彼をなぜ殺さなければならなかったのか? 彼女は自分の眠っている間に自分の身体を売られていたと聞かされる、それが理由になるかもしれない。そんな事実を彼女に伝えながらも、薄笑いを浮かべながら自分とSMプレイに興じることができるような男だ。しかし、なぜ彼女がそのような状況に身を落とされなければならなかったのか? それは彼女が彼の恋人だったからだ。 しかしなぜ彼女は彼の恋人だったのか? ……無限に続く問答はやがて彼女たちの存在の始原への問いにまで行き着くかもしれない。しかし、もちろんそこにまで遡ったとして、明白な答えなどありはしまい。人間とは何か、世界とは何か、生とは何か、死とは何か……そういった問いに対する答えなど存在しないように、彼女たちはひとつの問いから喚起される無限の反復の中に投げ込まれている。無論、そこに答えはない。
 そしてそれは、映画とは何か、という問いの有する無限の反復と同質のものであるだろう。オリヴィエ・アサイヤスはその問いの周囲で同じ映画を撮り続けているように思う。そして女たちは、『ストロンボリ』、『ヨーロッパ1951年』(ロッセリーニ)のイングリッド・バーグマンのように、あるいは近年の作品では『レディ・チャタレー』(フェラン)のマリナ・ハンズのように(あるいは全身に刺青を纏った『イースタン・プロミス』のヴィゴ・モーテンセンのように?)、自分たちの身体をフィクションの内部で、繊細な映像と音響の内部で見つめ直すための術を模索するために、孤独に世界と戦い続けている。携帯電話も、インターネットも彼女たちを孤独から救済などしないし、1発の銃弾がすべてを解決してくれることもない。『レディアサシン』を見ることは、そして聴くことは、そのような世界に私たちもまた、ひとりぼっちで生きているということを確認することだ。

特集上映「オリヴィエ・アサイヤスとアメリカの友人たち」
8月2日(土)〜8月29日(金)@吉祥寺バウスシアター