『告発のとき』ポール・ハギス高木佑介
[ cinema , sports ]
ダグラス・サーク特集にせっせと通う傍ら、気がつけば終了間際になってしまっていた『告発のとき』を見に行く。トミー・リー・ジョーンズの息子がイラク戦争から帰還したのち、謎の失踪を遂げたことが冒頭で知らされ、物語は終始その事件の捜査という一点に絞られる。ほどなくして失踪事件は息子のバラバラ焼死体の発見によって殺人事件へと発展し、元軍警察トミー・リー・ジョーンズの異常な活躍ぶりで事件の真相が明らかにされてゆくのだが、もう一方で私たちが次第に認識してゆくのは息子が戦地で犯していた奇怪な行動についてだ。父親が知る由もなかった息子の奇行。家族という最も身近でミニマルな共同体をめぐることに留まり続けるこの映画は、父親が認識してゆく息子の死と奇行の様相を、120分の尺をたっぷりと使って丹念に描き出しているのである。
ポール・ハギスの前作『クラッシュ』は恥ずかしながら未見で、その作品を踏まえて彼の作家性云々について書き連ねることはできないが、このフィルムを観たとき私が感じたのはいわゆる映画的な「見せ場」がすべて意図的に「外され」ているような感覚である。たとえば冒頭で早速、何の前触れもなしに映し出される例の逆さまになった星条旗。ラスト・シーンで映されるものとばかりと思っていたが、その実そんなことはなかった、と思いきや、やはりラスト・シーンでばっちりトミー・リー・ジョーンズによって掲げられるという入れ子の構造をこのフィルムが持っていることはわかる。だが、このフィルムにおいて最も示唆的で、最もシンボリックな意味を備えた逆さまの星条旗を、まるで進んで種明かしでもするかのように冒頭に堂々と飾る必要性が果たしてあったのだろうか。あるいは中盤で繰り広げられる容疑者と警官たちの追跡シーン。このフィルムで最も人物たちが躍動し、映画に流れる時間が明らかに変調する場面となっているのだが、ほとんどと言っていいほどに物語には関係ない。何しろ、派手な追跡が終わり、容疑者が無事に捕まったと思いきや、次に私たちが見る光景はこの容疑者があっさりと釈放されている場面なのだ。これら一連の出来事によって、見れば見るほど美しい人に思えてきたシャーリーズ・セロンの眉間には、決して消えることのない生々しい傷痕ができてしまうことになる。さらに付け加えれば、当初はまったく無関係に思えた、飼いイヌをバスタブで溺死させた夫がいる家族のエピソードが、あとになって唐突に挿入されている点も、思わず首を傾げてしまうほどの異様な唐突さなのだ。
これらの演出が果たして単に失敗なのか、それとも意図的なものなのかはよくわからない。だが、それらを隅に置いておくにしても、このフィルムで指摘しなければならない点はもうひとつあるだろう。それは、唯一このフィルムの筋を一貫して支え、息子の奇行ぶりをサスペンス・タッチで私たちに伝えるための装置として非常にタイミング良く挿入される、息子がイラクで映した携帯電話の写真と動画だ。アメリカの家族という「ここ」を終始描くことに専念しているフィルムの中で、私たちは唯一この携帯画像によってしかイラクという「そこ」を見ることが許されない。かろうじて「そこ」がイラクであると認識できる程度にしか映されていないそれらの画像は、私たちの視覚的認識をさらに阻むかのように、いったい何がどう映されているのかわからないほどに乱れる。いったい、このフィルムにおける「ここ」と「そこ」のあいだに絶対的に横たわる差は何なのだ。シネスコのサイズでこれでもかと大きく映し出されるトミー・リー・ジョーンズの顔、息子の無残な焼死体、逆さまの星条旗という「ここ」。一方で、それがイラク兵なのかアメリカ兵なのか、写真の中央に横たわっているものがトラックで引き殺された人間の子供なのかイヌなのかといったことすらもわからないほどに小さく、遠目で、乱れた画像として映し出される「そこ」。ラスト近くに、トミー・リー・ジョーンズがフラッシュ・バックで見ることになる彼自身知る由もないはずの、「神の視点」で映されたイラクの映像は、携帯画像とまでは言わないまでも、ややくすんだ色合いをした画質によって提示され、やはり「ここ」と同じ映像で並ぶことは許されない。果たしてこれは演出という言葉だけで片付けられていいことなのだろうか。どうしてポール・ハギスは、「ここ」を見る姿勢と同じように、「そこ」を直視することをしなかったのだろうか。