『トワイライトシンドローム デッドクルーズ』古澤健田中竜輔
[ architecture , cinema ]
現在の日本映画の実製作にかかわる状況というものがどのようなものなのか、映画監督でも何でもない一観客である私が知る由もないが、莫大な予算がかけられた信じ難い作品の予告編に対し、ただ呆然とすることにさすがに飽きてきた。もちろんそういった作品の多くを実際に見ていない怠惰故に、作品自体を全否定することなど許されるはずもないのだが、しかしそれら作品の多くに数億円という金額が費やされていると言われてもまるで現実味がない。人間がひとり、人生を十分に謳歌できるだけの金銭が目の前の映像に使われていることを信じられない。
もちろんそれが資本の論理ならば仕方がない、マーケティングの結果ですと言われれば仕方ない……わけがないはずだ。形式に従った意見収集と、数字の計算だけで映画ができるはずがない。でも、本当に腹が立つのは、そういった論理に全く疑問を持っていない映画を見てしまったときだ。「映画ってこういうものだよね、こういう映画は喜ばれるんだよね」、などというような何の根拠もない断定が堂々と画面を支配しているような映画、それこそが真に観客を馬鹿にしている映画なんじゃないのか。多くの場で「作家の映画」に対し何の根拠もなく与えられる蔑称である「ひとりよがりの映画」とは、そういった作品こそを指すんじゃないのか。「作家性なんてものは言い訳だ」などという世迷言を最近どこかで目にしたが、馬鹿じゃないのか。作家であることというのは、小手先の技術で物事を誤魔化すことなんかではなく、映画を作るということにただ真摯に向き合うことだ。ダグラス・サークを1本見れば、そんなことは何も言われずともわかるはずだ。
前置きが長くなってしまって申し訳ないが、古澤健の『トワイライトシンドローム デッドクルーズ』を見てこんなことを考えたのは、このフィルムが終盤において、もちろん数億円という金銭がかけられているわけではないとはいえ、そういった論理に対する抵抗を体現しようとしていたからだ。映画が、前提として与えられた「ゲーム」における構造を、バッテリー切れという「合法的」な論理で脱出すると、関めぐみが直面するのは、殴られれば痛いし、刺されれば痛いし、殺されたら人はもう生き返ることはないし、目の前で友人を見捨てることを決めたならばその友人と二度と再会することなどできないという現実だ。ちょっとした憂さ晴らしのために人を殺す、なんてことをゲームが許したとしても、映画が許してくれるわけじゃない。映画において人を殺すことは、文字通り人を殺すことだ。登場人物とゾンビたちが次々と姿を消していくことと同期するように、映画を取り巻いている様々な拘束具が外されていくように見える。ある種の軽さを前半において纏っていた宇波拓の音楽はその経過に伴って不穏さを増し、画面は説話にではなく、ただ一心不乱にクリアを目指す関めぐみを捉えることだけに奉仕し始める。そして彼女がわかりきっていたはずの結果に直面するとき、このフィルムは終わる。
できることなら、たったひとりになった彼女がこれからどのように生きていくのか、その続きを見たいと思った。関めぐみがそのゲームから逃れられないその後の人生を送らねばならないことが確かに示されているように、1本の映画を見たという事実はリセットされないし、リセットできないことだ。おそらく彼女のその後は、その事実を過剰なまでに突き付けてくれたのではないだろうか。
渋谷シアターN他にて全国順次公開