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August 22, 2008

『ダークナイト』クリストファー・ノーラン
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 暗い夜かと思ったら、kがつくナイトだった。バットマンが活躍するゴッサムシティには「騎士」よりも「夜」の方がよく似合う。DCコミック版でもティム・バートン版でもアニメ版でもいいが、ゴッサムシティとはその大半を夜が支配する街、そして夜の生活者たちが支配する街である。まっとうな人間も一握りはいるようだが、あくまでも少数派で、そんな人たちの価値観の通用しない街であることが嫌われものヒーロー・バットマンの正当性につながっている。
 ところが『ダークナイト』におけるゴッサムシティは、そうしたギミックと魑魅魍魎の跋扈する場所ではない。昼は夜と同じくらい長いようだし、香港とも海づたいに繋がっている。なにより市民の大半は善良であるようだ。
 ヒース・レジャーの死去により、ジョーカーの存在が大きく宣伝されているが、この映画の全体を形づくっているのはアーロン・エッカート演じるデント検事、後のトゥー・フェイス・デントだろう。彼が居ることによってクリスチャン・ベールとヒース・レジャー、あるいはクリスチャン・ベールとゲイリー・オールドマンとの間に三つ巴の状況が出来る。昼と夜、光と闇が拮抗するゴッサムシティに、彼の存在が多数決を導入する。彼の人間性を示すコインの演出は良くできている。幸運な男から運命を自ら切り開く男へ、そしていかに優れた人間でも表と裏の両方を選ぶことはできないという無力感を知る男として、この映画のモチーフをきっちり描いている。
 彼の存在によってジョーカーの恐ろしさが初めて理解される。この民主政治の世界(いや高度資本主義社会か)では、半分を支配するのは全部を支配するのと同じだからだ。そうした彼の支配によってバットマンはひとつの苦境に立たされる。ひとつのタブーを犯すのはすべてのタブーを犯すことと変わりはないのだと。彼の戦略は、その外見とは裏腹に至極真っ当な政治戦略なのだ。
 善良な市民の多数決も、賢明なひとりの囚人の独断も、結果的には同じ選択がなされ、そのことがひとつの正しい結末を生む。この正しい市民たちの住む街で嫌われものヒーローであるとはいったいどういうことなのか、なにか価値のあることなのか。それについては、愛した人と仲間と兵器とを失って走り去る男の行き先を描いた次作を待つしかないが、この作品が閏年の今年公開されることに大いに意味はあるだろう。ゲイリー・オールドマンは走り去る男が「監視者」なのだと言う。大半の市民は光を求めている。それでもなお残る闇に対抗するには、ジョーカーの用いる戦略とは別のものを見つけねばならないだろうが、我らが不機嫌なヒーローはこの逃亡の先になにを見つけるのか。

全国ロードショー中