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August 31, 2008

『ダークナイト』クリストファー・ノーラン
松井 宏

[ cinema , sports ]

 バットマン出来の善し悪しは悪役にかかっている、というのがティム・バートンの教訓だったとすれば、ノーランの前作『ビギンズ』はそれを破ったゆえに駄目だったのわけかと勝手に納得していたものの、どっこい本作はジョーカー登場である、さてどうなるものかと期待は膨らむ。
 で、やはりこのフィルムはジョーカーの肩にかかっていた。で、ジョーカーの存在に対して妙な感覚を持ってしまったので、このフィルムに対しても妙な感覚を持ってしまった次第だ(とはいえこれは俳優ヒース・レジャーの演技というよりは、やはり監督ノーランの演出に関わる問題だ)。
 バットマンに限らず、いかなる警官もほとんど彼に銃弾をぶっ放すことがきでないのは、いったいなぜなのだろう?検事ハービー・デントを護送する際にジョーカーたちが護送車を襲ってライフルからバズーカまでぶっ放すのだが、警官たちはといえば、立派な銃を持ってるくせにほとんどそれを撃たない。そしてその後、バットマンの象徴とも言えるシーン、つまりバットマンはジョーカーを轢き殺そうとしながらも直前でそれを回避する。
 バットマンはジョーカーに限らずひとを(極力)殺めないわけだから、いいだろう。しかし警官たちはがんがん撃っても構わないはずだ。でもぜんぜん撃たないから、なんだかジョーカーは、レジャーの迫真さにも関わらず、どんどん抽象的になっていく感じがする。たとえばジョーカーとは、バットマンの、市民の、あるいはバットマンとハービー・デント/トゥー・フェイスの間の、ファンタスムであり想像の産物であって、だからそんなものに銃弾という具体物を対抗させることなどできないのだと、それがノーランの提示する図式だとしよう。であればやはりノーランというひとは、これは『メメント』からずっとそうなのだが、自らの図式を徹底しすぎる過激に生真面目な監督ということになる。ノーランにおける登場人物たちはみんな時間が進むにつれて徐々に抽象的になってゆく。そして結局残るのはフィルムの骨組みというか構造のようなものだけなのだと、そう言ったらよいか(しかも構造は「剥き出し」にはならない、なぜならそれもまたどこか抽象化を蒙っているからだ)。
 マギー・ギレンホールにしても、個人的には大好きなのだが、彼女がレイチェル役というのはちょっと変だ。言い方は悪いが、「レイチェルは死ぬ」という構造のためだけに彼女を選んだのではと疑りたくもなる。
 とはいえ、或るひとつのシーンを、そしてあるひとりの男を際立たせるためにこそすべてを犠牲にしたのだと、もしノーランが主張するのであれば、僕は喜んで彼に賛同したいと思う。件のシーンとは、ラスト近くの、あの2台のフェリーにおけるそれだ。そして件の俳優とはタイニー・リスター・Jr! レニー・ハーリン『プリズン』からすでに囚人服を着せられ、いつだって脇にいながら不正に立ち上がってきた彼が、起爆装置を海に投げ捨てるとき、そこには抽象性など皆無だ。ジョーカーが悪を説いたり、トゥー・フェイスが悪のプロセスを体現してみたり、バットマンがいろいろ悩んでみたりするより、あの笑っちまうようなシンプルな身振りがいちばん具体的なのだ。要するに『ダークナイト』とは、彼タイニー・リスター・Jrによって、あらゆるレヴェルで救われたフィルムなのだった。

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