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September 27, 2008

『東南角部屋二階の女』池田千尋
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 若く才能のある映画作家たちが小さな世界に身を落ち着けてしまうのはいったいどうしてなのだろうか?
 壊れかけた木造アパートの脇に庭付きの日本家屋があり、その縁側で老人はタバコを吸っている。会社を辞めた男はそのアパートの一室に住み、同じ日に会社を辞めた同僚と男と見合いをした女性が同じアパートに転がり込む。アパートのオーナーで小さな飲み屋を営む女性が老人の世話をする。男は老人の孫であり、父の残した借金の返済のためにこのアパートを売ろうとする。
 確かにこのフィルムには上記の物語を肉付けするために多様な細部に満ちていて、特にラスト近くに襲ってくる台風はいかにも映画的にこのフィルムを豊かにする運動となっている。
 だが、いかに映画的な色づけがなされていようとも、このフィルムに出演する若手(西島秀俊、加瀬亮)やヴェテラン(香川京子、高橋昌也)が好演しようと、このフィルムは、このアパートの周辺の小さな世界を突き抜けたりはしていない。突き抜ける要素はあるのだが、それは決して映画的な運動ではなく、物語上の要請だと感じられてしまう。ここでもまた「ミニマリズム」という言葉が記されるべきだろうか。すべてが予定調和的で破綻が無く──つまり、極めて平均点の高いフィルムなのだが、その平均点の高さと破綻のなさによって、すべてが収まるところに収まってしまう。
 小津安二郎のフィルムならば、同じようにミニマルな表層を見せているが、その外には、大きな力で変わっていく世界を感じるし、成瀬の世界も常にミニマルな安定を見せる世界に亀裂が入り、それが破壊される力学を描いていた。同じように台風がやってくるにせよ、相米慎二の『台風クラブ』の台風は、かつての調和のある世界を思い出させるために襲来するのではなく、それまで揺り動かされていた秩序を根こそぎ破壊し尽くしてしまう。もちろん、小津や成瀬や相米を引き合いに出す必要はなく、池田千尋のフィルムは彼女のものなのであって、他の何かと比較する必要はないかもしれない。
 だが、若い映画作家が、見事な造形力を見せつつ、最終的に調和ある世界に回帰していく様を見るのは、どうしてももの足りない。そう感じるのはぼくの個人的な感慨にすぎないのだろうか。少なくとも若い映画作家は、それまでの映画史のすべての先端にあって欲しいと考えるのは過大な期待なのだろうか。それとも、こうした「日本映画」が多く生まれているこの数年の事情をこのフィルムもまた反映しているだけなのだろうか。それとも、そんな感慨を記す映画批評など必要なく、このフィルムに登場する高橋昌也のように沈黙を貫く方が健康的なのだろうか。

ユーロスペースほか順次公開中