『アキレスと亀』北野武山崎雄太
[ cinema , sports ]
絵を描き続ければ人が死に続ける。なんで映画観てこんな辛い思いをしなければならないのかとまた悲しくなってしまう……。
少年真知寿(マチス)は、大金持ちである生家に出入りする画家との素朴な交流から画家になることを志す。しかし、父親の会社が倒産に追い込まれてから生活は一変する。少年−青年−中年と時代を追って半生が語られてゆく真知寿を貫く無表情、過去への執着のなさは、すべて他人への無関心に端を発するものである。少年時代に唯一心を通わせていたかに思える又三の(言うなれば自分のせいでの)死は彼になんら影を落とすことはなく、それは鉛筆で描かれた又三の風景画にただ赤い色彩が入るだけのことであり、あるいは青年時代における友人の事故に際しても、それは飛び散るペンキの色に赤が加わることに過ぎない。中年時代に遭遇した事故もまた同様である。彼にとって死とは、顔が赤く染まることでしかない。「母親」が死んだ時からずっとそうであった。だからキレイなままの娘の死に顔を、口紅で赤く染めずにはいられない。だがしかし真知寿は、自らも創造のさなか火に包まれ死にかけたのち、転がっているコーラの缶を見て自分がどうこうする前から「赤」はそこにあったことに気づいた(かもしれない)……。ただ、『アキレスと亀』の残酷は、このような死そのものに対する白々しさにあるのではない。なにより残酷なのは、絵を描き続け、よって不幸であり続けた男の半生を語っておきながら、創造すること・続けることへの絶望をひたすら見せつけておきながら、北野自身には「帰ろうか」に対して帰る場所を用意している点にある。かつて『キッズ・リターン』でわれわれに続け方を教えてくれた北野武はしかし、このひたすら残酷で陰鬱な『アキレスと亀』で後続を一蹴してまんまと逃げおおせた。幕切れにおいて、彼が帰るべき隅田川沿い(言わずと知れた「下町」、そして「浅草」、上っていけば「足立区」)をぬけぬけと歩いて逃げる頃には、われわれは創造の火床(文字通り!)なんて耐えられようが耐えられまいが良いことなんてひとつもないということを諒解して呆然としている。前に「続けることだ」とここに書いたが、シャッターの落書きは早く消して、やめられるうちにやめなくては……。
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