『La frontière de l'aube』フィリップ・ガレル槻舘南菜子
[ cinema , music ]
公開初日にして観客は四人。たぶん暇つぶしの爺さん(わざわざ挨拶までしてきて、「昼間からこんな映画見てるのか、おまえ暇なんだろ?」と言われた)、若者(途中で離脱)、妙齢……ではない女性と、私。
シンプルなオープニングのタイトルを締めくくる「キャロリーヌに捧ぐ」という言葉には、見覚えがある。そう、『白と黒の恋人たち』も同じように・・彼女に捧げられていた。さらに、映画監督であるフランソワと、かつての恋人キャロルという固有名は、そのまま『La frontière de l'aube』に受継がれている(ルイ・ガレルに関しては前作『恋人たちの失われた革命』でも、フランソワだった)。『白と黒の恋人たち』では反復の末の悲劇を語っていたはずだが、では、この物語はどこへ?
ハリウッドスターである女優キャロル(ローラ・スメット)と写真家フランソワ(ルイ・ガレル)。舞台は現代のパリ。彼が、彼女のルポルタージュを撮るために、アパルトマンを訪れるところから物語は始まる。彼のキャメラが彼女の眼差しを捉えた瞬間、互いに魅了されたように、二人は恋に落ちる。写真家の求めに応じて、肉体を静止させ、ただ見つめるという行為に身をまかせること。この関係に、『孤高』を想起せずにはいられない。『孤高』のジン・セバーグの、あの震えるような眼差しを覚えている。彼女の瞼を、瞳を、睫毛の一本一本を。劇中の女優の辿る、多量の薬物投与、精神錯乱、自殺、墓地。ジン・セバーグの名前を、私はモンパルナス墓地で見たばかりなのだ。そして『秘密の子供』のエピソード−−精神病院への収容、電気ショック、脱走−−、ルイ・ガレルの見る夢には、再び「幻滅の森」(『秘密の子供』の劇中ジャン・バチストが語る次回作のシナリオ)が出現する。もちろん再び『恋人たち〜』そのままに、中世を模したコスチュームに身を包んだカップルは、疲労で足をもたつかせ、森の小屋に倒れ込む・・・のだが、ここから状況はあらぬ方向へ向かって行く。そこに死んだはずのキャロルが現れるのだ。確かに『白と黒の恋人たち』でも、夢にかつての恋人の姿はあった−−確かナイフを持って襲いかかって来たはず−−が、彼女は現実にも介入し始める。彼女は鏡の向こう側に。
ローラ・スメットは、ガレルの私小説に亀裂を生じさせるためにやって来る。1968年、そこに存在しないはずのKinksの『this time tomorrow』が、NICOの『VEGAS』が響くように。美しいファントムとしてではなく、怪物として。そしてもちろん、ルイ・ガレルはまた『恋人たち失われた革命』と同じ結末を迎える、否、迎えなければならなかったのだ。画家が何度もキャンパスに絵の具を重ねていくようにとガレルは、自身の映画について語ったものだが、彼を含め、70年代の芸術の官僚たち(Les ministères de l'art)の近作、アンドレ・テシネ『証言者たち』やドワイヨンの『誰でもかまわない』にもまた、繰り返しの中に何か、何か、新しい色が塗り重なったような気がしてならない。それは何とも言えず、とにもかくにも感動的だ。
※現在パリにて公開中。日本公開の詳細は未定。