『崖の上のポニョ』宮崎駿田中竜輔
[ cinema , cinema ]
あまりに露骨な「父殺し」の描写があるとはいえ、少女と少年の閉塞された状況からの離脱というごくありふれた物語を、極端に平面化された――ほとんど一枚絵にまでデフォルメされた――風景の描写に、偽の空間性を徐々に導入するという発想、言い換えれば2次元の空間であるアニメーションに3次元的な偽のリアリティを導入するという発想だけに拠って解決をもたらそうとした『ゲド戦記』の凡庸な想像力の持ち主に対し、その父である宮崎駿は『崖の上のポニョ』において痛烈な批判を与えているように見える。
ロバート・ゼメキスの『ベオウルフ』におけるCGの使用が、松井宏が指摘するような「高度な技術によるリアリティへの」さらなる接近ではなく、「一種の始原性めいた何か」への接近にあるとすれば、『ポニョ』が提示しようとしたものも同様の始原性であるかもしれない(ただし実写の存在しないアニメーションという表現媒体の内部で、という限定条件付ではあるが)。つまり『ポニョ』では多くの人が指摘するように、X軸とY軸の内部で織り成される線と色彩が生み出すものとしての原初的なアニメーションへの回帰が試みられている。それゆえに『ポニョ』はリアリティには向かうことはない、架空のZ軸を生み出すことはない。冒頭数分の極彩色の海底の描写からそれは一貫している。
そして逆に言えば『ポニョ』の世界でのあらゆる運動はその理念の選択においてしか成立していない。厚みを欠いた波はその薄っぺらさゆえに魚になることができ、その背にポニョを乗せて自動車を追いかけることができる。あるいはすべての秘密を知るポニョの母は、どこまでものっぺりと海の表面に伸縮し拡大し、さらにはただ同じ位置に「重なる」だけで遠景の家屋の照明を消し去ることができる。『カリオストロの城』をはじめ、アニメーションの空間に、映画的な空間の造詣を高いレベルで導入することにおいて評価を築き上げた宮崎駿の、ほとんど前言撤回のようなポジティヴな「リアリティ」の放棄による自由が、『ポニョ』の原動力にはある。その瑞々しさに胸躍る瞬間が幾度もあり、そしてそれが物語を有した100分の上映時間を持つ長編作品として達成されていることにはやはり驚く。先述したカーチェイス(?)のシーンは私にとっても『ポニョ』の最も素晴らしいシークエンスのひとつだ。
しかしその始源的なものへの回帰に相反して、『ポニョ』の世界が向かうのはあまりにも明白な終焉でもある。少年とポニョの幸福な冒険の背後であからさまに進行する、北欧神話をはじめとする伝承を素材に構築された世界の、ポニョによってもたらされた終わりの様相は、たとえば『ハプニング』や『ミスト』、そして『宇宙戦争』といったアメリカ映画が、ほとんど何の理由もなく突然に異物や異常を世界に導き、そこで人類が生存の危機に脅かされるケースとそう大して変わらないことのようにも思える。そこに無数の記号やメタファーに基づく謎解きが過剰に盛り込まれているということを加えたとしても、そんなものは宮崎駿の常套句であり今さら蒸し返すことではあるまい。
問題はその先にある。「世界の終わり」を主題とする多くの作品に対し、『ポニョ』はその終わりの先に、ある明瞭な答えを用意している点において異なっている。それは「いろんな不思議なことが起こったけれども、やがてわかる日が来るでしょう」といった内容の「母」のあっけらかんとした一言に集約されている。『ハプニング』のマーク・ウォールバーグのミツバチの消失に対する知の限界の表明と真逆にあるこの台詞が、『ポニョ』という作品のアニメーションであることの限界を表明したものであるとすればまだいい。しかしそうではなく、それが本当に「いろんな不思議なこと」が「わかる日が来る」のだということを断言するものであるとすれば、つまりそれが映像表現の可能性であるという表明であるとすれば、それは結局のところ『ゲド戦記』と同じ地点での足踏みに過ぎないのではないだろうか。少年がいつか「いろんな不思議なこと」を「わかる日が来る」とすれば、『ポニョ』を見にきた多くの子供たちを含め誰もが「わかる日が来る」のかもしれない。では、それが「わかる日が来る」ことの先には、いったい何があるのか。
つまり『ポニョ』の「世界の終わり」は、その「わかる日が来る」ことを待ち望むためだけに用意されたものなのではないか?あらゆるイメージの、あるいはあらゆる物語の、つまりあらゆる想像力の墓場としての「世界の終わり」は『ポニョ』にはない。それは単なるひとときの終着点に過ぎない。たとえば『ベオウルフ』の、たとえば『A.I.』の悪夢そのもののような終末には「わかる日が来る」ことはないだろう。だがそのような「わかる」ことなど訪れない終りの地点においてこそ、今、映像は生み出されるべきなのではないのか。『コッポラの胡蝶の夢』の、あるひとりの人生の終わりの、その先にあるもうひとつの終わりの、その先を生み出す何かのようなものとして生み出されるべきではないのか。