東京中央郵便局、ついに高層へ梅本洋一
[ architecture , cinema ]
すでに郵便局からは基本計画が発表されていて、ヘルムート・ヤーンによる現状一部保存(詳細な計画を見ていないのだが、ファッサード保存程度だろう)と38階建になるという。今回、700億円を越える金額で大成建設が落札した、というニュースを新聞で読んだ。
小泉前首相が、都心の一等地に低層で土地を大きく占めている公共物件があっていいのか?という郵政民営化のシンボルがこの建物の解体だった。その小泉の新自由主義を推し進めた竹中平蔵も、最近の朝日新聞に、美学を旗印に規制緩和に待ったをかけるのは保守的である、という趣旨の記事を書いている。問題を複雑にしているのは、この吉田鉄郎設計でDOCOMOMOの日本のモダニズム30選にも選ばれている名建築の保存か立て直しかという問題が、郵政民営化という政治問題と結びついてしまったことだ。郵政民営化の揺り戻しを後押しする旧保守陣営からもこの建物の保存という意見書が提出されたことは記憶に新しい。それとは異なる文脈から、この建物を保存しようという建築家グループからは、高層化して不動産事業に手を出すよりは、高層分の空間を周囲のビルに売った方が採算がいいというアイディアも出されている。
都市景観の問題は、本当に難しい。九段のイタリア文化センターに石原都知事が嫌悪感を表明した問題や楳図かずお邸の色彩に対して住民たちが裁判を起こした問題等、美学と制度に関わる複雑な要素が必ず含まれてしまう。そして、東京中央郵便局の問題にしても、その統一的な都市景観を守ろうとするなら、丸ビルや新丸ビルが高層化し、丸の内オアゾが作られ、さらに有楽町から続く丸の内一帯の景観が三菱地所(東京中央郵便局の建て替えについてヘルムート・ヤーンを採用したのはこの会社だ)に作りかえられていることを考え合わせれば、すでに完全に手遅れである。
だが、小泉や竹中が唱える新自由主義的な経済原則は、昨今のウォールストリートの動きによって説得力を失い、また彼らが「都心の一等地を低層の公共建築が専有する」という理屈をそのまま採用すれば、皇居や東宮御所や赤坂離宮などは、超一等地でしかも、ほとんど「空き地」状態だ。こんなことがあっていいのか、という問題を提出することもできるだろう。
そして、東京中央郵便局の内部は、何度も最低の改修が行われていて、そのファッサードの美しさに比べれば、内部にはもう見るべきものは少ない。東京駅があり、その正面に僥倖道路があり、脇を丸ビルと新丸ビルが固め、その奥には、ロラン・バルトの言う「空虚の中心」である皇居があるといった景観はずっと前に失われてしまった。それに、東京駅前に巨大な郵便局が必要なのかという議論を前にすれば、ぼくももう巨大な郵便局の役割は終わったと思う。議論は、単に吉田鉄郎の傑作を保存するか否かのものではなくなり、常に動いていく経済の問題、そして公共と民営化という問題、さらにビルひとつではなし得ない景観という問題、短期的なポピュリズムを強く思考する政治の問題、多種多様な問題がその周囲に貼り付いてしまった。
三信ビルの跡地に佇むと、そこから皇居の森が見渡せる。かつて、ここにあった素晴らしい空間は、もうない。今、初めてこの場を訪れる人にとって、三信ビルなど、少数の人々の記憶の中のノスタルジーでしかないだろう。ぼくだって、完成時の東京中央郵便局を知っているわけではない。そのファッサードの統一性に比べて、内部のつまらぬ改修が良くないと思うだけだ。新しい丸ビルや新丸ビルも好きではないのも、かつて東京駅に降り立ったときの、統一的な景観を覚えているのと、旧丸ビルの1階にあった千疋屋で小さいころ美味しいフルーツサンドウィッチを食べたからだろう。だが、美しいとはいえ、かつての統一的な景観を造りあげた国家と三菱の思想に、政治的にはまったく共感できない。同時に、現在のような三菱地所主導の景観の造形にもまったく納得できない。どう考えたらよいのか。これからも、この問題は考え続けねばならないだろう。