『アンナと過ごした4日間』イェジー・スコリモフスキ結城秀勇
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たとえば『ザ・シャウト』などにも見られたような、単純に語りの効率性に奉仕するわけではない時系列の交錯が、この『アンナと過ごした4日間』にもある。だが、ここで描き出されるものを物語として要約すれば、非常にシンプルなかたちにまとめることができる。すなわち、ひとりの男が隣に住む女性の部屋に忍びこむ、それが4夜の間続くということ。時折男の過去が、その間に挿入される。それら過去の出来事が、主人公の男レオンの行動の動機を説明する、などということはない。しかし、断片化され並べ替えられた時間の各瞬間に映し出される一挙手一投足が、レオンという人間を雄弁に物語る。不器用さと繊細さ、大胆さと内気さ、揺るぎない信念と逆説的にそこから生まれるやましさ。それらはレオンを演じたアルトゥール・ステレンコのぎこちない歩みや指先の震えから滲み出る。
上映後のティーチインにおいてスコリモフスキは、この映画の冒頭でレオンがなにかより凶悪な犯罪に関係しているのではないかと観客が疑いを持つようなトリックをしかけたと語っていた。斧を購入し、小窓から隣家を除き、砂糖壷に睡眠薬を混入させ、闇を照らす照明を小石を投げて破壊する。それらの手口はまるでプロフェッショナルの仕事のように無駄のない動きで描写され(しかしながらその間も、よく見ればステレンコの手は震え、ぎこちなさが絶えず紛れ混んでいるのだと、我々の行ったインタビューで監督は語っていたが)、その後彼がアンナの部屋の中で行う行為の徹底的な不器用さと対称をなしている(その鮮やかなコントラストはユーモアと呼ぶほかない)。窃視、薬物混入、不法侵入といった犯罪的な事柄をなんの困難もなく成功させながらも、ほつれたボタンも、塗りかけのペディキュアも、ダイアの指環も、鳩時計の修理も、愛する人になにひとつ満足に与えることができない。レオンが試みるなんらかの生産的な行為、ある種の信念(信仰というべきか?)に基づく行為は、彼が根本的に抱えたやましさ、罪の意識によって台無しになる。それは彼に、彼が犯したより遥かに大きな無実の罪すら引き寄せる。ここにあるのは、スコリモフスキの作品に現れる登場人物が持つ要素の特異な結晶化なのかもしれない。『不法労働』において、法の目をかいくぐるジェレミー・アイアンズが、祖国の現状についての真実だけは仲間に告げられなかったことを思い出す。
スコリモフスキはステレンコという俳優自身が持つ不器用さについて私たちに語ってくれた。長回しのショットの最中に、彼がなにかちょっとしたミスを起こすことも折り込み済みだったのだと。ただし、失敗を犯しても途中で演技を止めてはいけない、「Show must go on」なのだと伝えていたと。まるでこの映画のレオンを突き動かす力そのものについて語っているかのようだ。アンナの部屋で過ごす最後の晩、それまでの夜にはなかったリスクをレオンは負う。そのことに気づき、彼は密やかに十字を切る。実際、その行為は彼になんの加護も与えてくれない。だが、彼が法の裁きのもと、彼を突き動かした唯一の理由を極めてシンプルな単語で説明するとき、神はおろかあらゆるものから見放された男がたったひとつ最後にもちえた力の強大さに、観る者はみな畏怖の念を抱かずにはいられないはずだ。
第21回東京国際映画祭 ~10/26