『宮廷画家ゴヤは見た』ミロス・フォアマン宮一紀
[ cinema , talk ]
18世紀末、スペインで長らく廃止されていた異端審問がカトリック教会の名の下に復権する。ポルトガル移民の子孫で裕福な商人の娘イネス・ビルバトゥア(ナタリー・ポートマン)は、ある晩居酒屋で豚肉に手をつけなかったことからカトリック教会にユダヤ教徒と見なされ、異端審問への出頭を命じられる。審問とは名ばかりの拷問——全裸で後ろ手に天井から吊るされる——によって罪の自白を強要されたイネスは牢獄に収容されることになる。これに納得できない彼女の父親は、神父ロレンゾ(ハビエル・バルデム)を自邸での晩餐に招き、教会への寄付を申し出て娘の解放をにこやかに迫るが、司祭はこれを退ける。神前での告白は審問における有力な証拠となるからだ。そこで父親は強硬手段に打って出る。ふたりの息子たちとともに司祭を縛り上げ、「私はチンパンジーとオランウータンの私生児です」という屈辱的な書面への署名を迫るのである。シャンデリアに後ろ手に吊るされた哀れな司祭は苦痛に耐えきれず震える手で署名をする。
ここにきわめて明瞭な反転が見られる。いま、ふたつの身体が吊るされている。ひとつは無実の罪を負わされた少女の裸体、いまひとつはスータンを身に纏った神父の身体である。ミロス・フォアマンにおける反転はこれまで一貫して説話ないし物語に奉仕し、だからフォアマンの作品は説話の単純な図式化によって軽視される憂き目に遭いがちだったのだが、このフィルムにおいてはいささか事情が異なっているように見える。もちろん本作にも説話の明瞭さを見て取ることはできるだろう。だが、たんに周知の史実に沿っていることに因る明瞭さ、あるいはコスチューム・プレイというジャンルに依拠した明瞭さ、それらは説話の次元と厳格に区別しておく必要がある。共同脚本にジャン=クロード・カリエールが名を連ねていることからも推測されるように、本作の説話はきわめて歪な形で展開する。イネスを牢獄から解放すべく尽力した彼女の家族の強引な駆け引きは、虚しくも彼女を救わないばかりか、あろうことか冷酷な神父ロレンゾから信仰心を奪い去り、彼をナポレオン配下へと送り込むことになる。こうした脈絡のなさはたしかに逆説的に説話の明瞭さに回収されるだろう。
一方で、上述の吊るされたふたつの身体は、たんにそこにある運動として自律している。実際のところ、空間にぶら下がるいかにも無力な人間の姿を私たちはフィルムの終盤で三たび目撃することになるのだが、そのとき街の広場の中央に鎮座する絞首台から落下するロレンゾは、道化師の格好をさせられていることとも相まって、集まった人々の視線を一身に集める自律した運動そのものとなるだろう。それらの自律した運動がフィルムの中で互いに切り返し、反転する。それだけのことなのだ。
かつて後ろ手に吊るされたふたつの身体は、ひとつは長い監禁の末に内に宿していた正気を失い、いまひとつはその命を失った。ふたりの亡霊が手を取り合って画面の奥へと去ってゆく静かで美しいラストシーンは、このめくるめく反転のフィルムを穏やかに弔う切り返しのようにも見える。ふたりはその身に注がれる無数の眼差しから自由になり、もはや互いに見つめ合うことさえない。
さて、天才画家フランシスコ・デ・ゴヤはどこにいたのか? 私にはどこにも見当たらなかったのである。
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