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November 5, 2008

『エグザイル/絆』ジョニー・トー
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 おそらくハッピー・エンディングは来ないだろうと誰でも思うだろう。だが、それでも、ジョニー・トーの演出は、ぼくらを捉えて放さない。究極の「型」の世界。つまり、それは演出の果てとでも呼べるだろうが、ストーリーの進行とは関係なく、銃撃戦があれば、それを磨きをかけた演出で描ききる。それぞれの登場人物に、「型」があり、その「型」と別の「型」が結ぶとき、新たな「型」が生まれ、映画は「型」から「型」へと不定形に運動を続ける。
「香港ノワール」とはそんなものだと言ってしまえば終わりだろうが、映画が映像と音声で出来たものである限り、それは多様な「型」の変遷であって、ひとつひとつ磨きに磨かれた「型」は絶対的なエステティックを獲得していく。ジョン・ウーがハリウッドで空しく才能を浪費しているかに見えるとき、ジョニー・トーは、香港に留まって、あくまで「型」を磨こうとする。
 香港とマカオが中国に返還される前夜、闇組織に属するギャングたちが組織に反抗し、個に目覚めていく。『エグザイル/絆』はそんな物語なのだが、このフィルムはそれまでジョニー・トーのフィルムに比べて明るいように思える。暗い闇にまぎれて銃撃戦が繰り返され、誰が味方で誰が敵なのかを判別できない中で、銃口から発射される光線だけが「型」の源泉であったそれまでのジョニー・トーに対して、このフィルムの主な舞台になっているのは、陽光に溢れたコロニアルな空間マカオだ。まるで『めまい』にでも登場するような南欧風の建物と集合住宅。東洋に移植された不可思議な空間の中で、ジョニー・トーの「型」が炸裂する。ウルトラモダンな高層ビル街でも、その裏にある貧民窟でもない、最初からある種の異化効果のある空間の中で、加藤泰のような、セルジオ・レオーネのような、マキノ雅弘のような「型」が延々とぼくらの目の前で展開している。物語のご都合主義は、このフィルムで主人公たちが自らの方向を決めるコイントスのように、偶然の産物にすぎないがゆえにかえって、遅延された結末までの間に引き延ばされたバロック的なプロセスそのままであり、おそらくジョニー・トーにとって、それが映画なのだろう。
 スコセッシやタランティーノがこの世界に寄せる憧憬も理解できる。この世界は、明らかに旧世界の秩序に属しており、香港やマカオが中国に返還される前夜の出来事という設定そのものもまた、この世界が旧世界の断末魔であることを示しているだろう。そして、こうした設定は、このフィルムには必要だ。このフィルムもまた旧世界の秩序に属するフィルムだからである。セルジオ・レオーネとの共通点もおそらくそこにあるだろう。現在の映画ではもう不可能になった「型」の世界。それは、歌舞伎や能を「伝統演劇」と呼び、職人技に優れた民芸品を「伝統工芸」と呼ぶのに似ている。そして、ジョニー・トーにあっては、「伝統工芸」はまだ立派に呼吸している。

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