『ブロークン』ショーン・エリス宮一紀
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「70年代アメリカのサスペンス映画のような作品を撮りたかった」と語る謙虚で正しいショーン・エリス監督のコメントを聞いた時点で否応にも期待は高まった。実際、このイギリス人の若手映画作家は出来事の推移を適正な時間の中で観客に伝えることができ、風や暗闇といったそれ自体は決して画面に映らないものをとても大切に扱っているようにも見て取れる。だが、このフィルムは冒頭に引用されたエドガー・アラン・ポーの短編小説の一節から最後まで逃れることができなかったように見える。
一家団欒のひとときに突然ダイニングルームの大きな〈鏡〉が粉々に砕け散る。その場は皆で冗談を言い合ってやり過ごすも、やがてそれぞれが「もうひとりの自分」の存在を感じ始める。ナルシスの神話以来、私たちは私たちの〈イマージュ〉に惑わされてきた。コクトーもまた〈鏡〉を通り抜けて冥界へと降りていったのだが、ショーン・エリスは〈鏡〉を距離の問題としてあっさり片付けようとしてしまってはいないか。一度だけ、〈鏡〉の裏側が映し出されるショットがある。そこに、こちら側の世界とパラレルで、まるで海底のように薄暗い空間が広がっている。それを目の当たりにしたときに、何もかもが腑に落ちる感覚があった。なるほど〈鏡〉を割るという物理的な作用を加えればその裏側に到達することができるのだ。だとすれば、これはもはや〈イマージュ〉に帰する問題ではない。後にその〈鏡〉を割ってこちら側の世界に登場することになる「もうひとりの自分」とは、「自分」を正確に距離化することによって成立する対象としての邪悪さでしかない。
「キャラクターが出てきて何かを説明する映画は退屈だ」と語るショーン・エリスだが、このフィルムは言葉によって説明もできるがそれをしていないだけなのであって、それは映画によってしか説明できないことを描くこととは決定的に異なっている。そもそも音楽の使い方に接しただけで説明過多なのはよくわかるのだが、冒頭のポーからの引用で十分すぎるほど映画の説明をしてしまっているのは何とも救い難く思われる。それほど悪くないフィルムだからなおさら残念である。
『ブロークン』全国公開中