『完美生活』エミリー・タン田中竜輔
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長編二作目になるというエミリー・タン監督の本作は、理想とはほど遠い人生の在り方に苦悩する二人の女性を、フィクションとドキュメンタリーとの双方で被写体に選び、それを並列的に映し出したフィルムだ。実際の製作過程としては、当初は完全なフィクションとして製作されたこのフィルムの出来に不満を持ったタン監督が、後付けのようなかたちでドキュメンタリーサイドを撮影し、最終的なラストシーンがそのあとで付け加えられたようになったのだという。しかし実際試みとしてこの方法が効果をあげていたのかどうか、その決定的な交錯のシーンを目撃してもよくわからないところがあった(それはこのフィルムの共同製作者であるジャ・ジャンクーが以前にフィルメックスに出品した『東(Dong)』を見たときにも感じた違和に似ていた。その作品ではそれまでドキュメンタリーとして撮影されていたフィルムが、唐突にその被写体のひとりである女性を対象としたフィクションへと移行する、というものだった)。しかし、それはともあれ、恋愛・青春・犯罪映画としての本作は主人公を演じたヤオ・チェンユイの素晴らしい存在感によって、非常に魅力的なのだった。
タン監督はこの作品をアートフィルムだと謙遜する(?)が、しかし序盤の嫉妬に狂う女が部屋に石を投げ込むシークエンスの空気の変質や、足の悪い画商が撃ち殺されてしまう一連のシーンの編集のリズムには、まぎれもなくジャンル映画への意識をはっきりと示した演出の力があるように思えた。それまで徹底して無表情を突き通していた主人公が、画商によって約束された新しい生活に向けてひとり微笑みを浮かべるあのワンシーンにおける安息感とは程遠い緊張感、あるいはボロボロの部屋の中でポスターの周りを歩きまわるゴキブリに向けるまなざしの虚無感とでもいうべきものは、そういった細部の演出の積み重ねがなくては生まれえないものだろう。
それに比べるとドキュメンタリーサイドの持つ力は、決して悪いとは思わないが、どうしても弱い。それゆえに監督が語ったような、フィクションとドキュメンタリー的な要素の衝突によって生まれうるだろう軋轢というものは、どうにも中途半端に感じられてしまった(このフィルムの重要な主題のひとつである写真が、その接触における触媒効果をさらに強く担っても良かったのではないか、とも考えてしまうが、出過ぎた真似か)。Q&Aでは非常にチャーミングな笑顔とともに、明晰に作品について語ってくれたタン監督の、より野心漲る次回作に期待したい。
第9回東京フィルメックス開催中
『完美生活』は25日(火)12:40より有楽町朝日ホールにて上映あり