『木のない山』ソヨン・キム田中竜輔
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上映後のQ&Aにて、客席に座っていたアミール・ナデリは自ら挙手し「魔法のような作品」と賛辞を送っていたが、まったく同意だ。素晴らしいフィルムだと思う。
夫が失踪し、生活に困窮した母親は、ふたりの娘を叔母に預け、自身もまた身を消す。その母親を待ち続けるふたりの少女は、小さなブタの貯金箱にお金が貯まったら母親が帰ってくると信じている……このフィルムはそんな状況に生きる幼い姉妹を描いた劇映画だ。もちろんそのふたりは本当の姉妹ではない。このフィルムは、脚本を彼女たちに読ませることなく、外から「次はこう喋ってみよう、こういうことをしてみよう」とまるでゲームのように呼び掛けることによって演出されたのだというから、彼女たちは当然そこで演技を求められているのではなく、きわめて自然な振る舞いを見せることに終始している。しかし(これは本当に驚くべきことなのだが、それをうまく記す言葉が見つからないのがもどかしい!)同時に、彼女たちはまるで本当の姉妹であるようにしか見えないのだ。彼女たちはあるがままでありながら、自らの役柄を生きている。否、おそらく正確には、<あるがままであることによって>、自らを映画の中に造形している。
『木のない山』は現実を尊重しつつ、劇映画であること、フィクションであることに真正面から取り組んでいるフィルムであるがゆえに、ここで実践されているのは頑なな自然主義ではないし、形式主義でもありえない。この素晴らしい二人の少女は、映画の中でふたりの現実的な存在としてあることと、まぎれもない登場人物としてあることを同時に体現することを実現している。彼女たちはフィクションによって生成されながら、自らフィクションを生成している。一本の映画としてのこのフィルムの運動も、それと全く同じなのだ。現実の断片としての短いひとつひとつのショットの集積によって――このフィルムのクロースアップを中心にした撮影と編集は本当に素晴らしい!――、きわめて豊かなもうひとつの変奏された現実を生成するように、『木のない山』は映画についての探求を実践している。あえてこのフィルムが近接している世界をあげるとすれば、たとえばジャック・ドワイヨンのフィルムが私たちに見せてくれる世界――もちろんドワイヨンのフィルムとはまったく異なる様相ではあるのだけれど――に、どこか共鳴しているような気がする。一本の映画が、スクリーンを見つめている時間の内部で、静かに鼓動を刻み、新しく生まれている感覚を覚えさせてくれる、感動的なフィルムだった。
第9回東京フィルメックス開催中
『木のない山』は28日(金)21:15より有楽町シネカノンにて上映あり