ホンダF1撤退梅本洋一
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かつて海老沢泰久の『F1地上の夢』と『F1走る魂』の2部作を読んでホンダとF1のただならぬ関係を知る者にとってホンダのF1からの撤退のニュースは本当に悲しい。本田宗一郎の不屈の魂でシャシからエンジンまで自社制作しF1に乗り込んでいく姿、そして中島悟が豪雨のオーストラリアGPで4位入賞したレースを目にした者にとって、ホンダは日産でもトヨタでもない。もちろん、BARホンダから始まった第3期の不甲斐ない成績を考え合わせると、ホンダももうごく普通の自動車メイカーに成り下がってしまったことを知っている。同時に、オデッセイの成功以来、ホンダのファミリー・カー路線を思い出せば、ずっと前からホンダがF1を撤退することなど分かっていたではないか。
F1なんて貴族の趣味だ。フェラーリのクルマなんて公道を走るのに向かない。そんなことは百も承知だ。エコカーへのシフトとガソリンを撒いて走っているようなF1エンジンの開発とは正反対の方向だ。それも十分承知している。だいだい時速300キロ超で走るクルマなんているのか? 不要だ。さらに最近のF1を見ろよ。上海やシンガポール、それにドバイのサーキットを見ろよ。新興諸国が「貴族の仲間入り」のためにサーキットを作っているようなものだろう。そんな中で興行するF1なんてもう初期の精神を失っている。その通り。
だが、どこまでも深い森の続くかつてのホッケンハイム、そして、今はもう詰まらぬサーキットに成り下がったニュルブルクリンクの周囲を回る10キロ以上続く狭い山道のコース、そして、今では改修されてしまったが、それでも十分に面白いオールージュへの飛び込みがあるスパフランコルシャン、それに何よりも公道のモナコ!それぞれのサーキットがそれぞれの風景を伝え、その風景を切り裂くように疾走するフォーミュラ・カー。海老沢泰久の本のタイトル通り「走る魂」としてF1。若いエンジニアたちは「地球環境」のためにホンダに入社するわけではないだろう。自分たちで仕上げたクルマが、そうした風景の中を疾駆し、そして辣腕パイロットが前に走る深紅の「跳ね馬」をオーヴァーテイクする。そんな夢を追ってホンダに入社した人がいっぱいいるだろう。本田宗一郎の後を継いだ前川本社長も現福井社長もそんなひとりだろう。ホンダの「親爺さん」の夢を受け継ぎ、レース屋としての血が継承されていく会社がホンダだった。財界の重鎮として政治にも影響力を行使するトヨタでも、国際企業として多くの人々の首を切った日産でもないレース屋の作るクルマを生み続けた時代がホンダにはあった。
テクノロジーの進化のおかげでどこの会社のクルマを運転しても大して変わらない時代が来てしばらく経った。資本主義の盛衰がレース屋たちの「魂」の奪い取り、走ることへの渇望をなかったことにしてしまうのか。スーパーアグリの撤退が、ホンダの撤退の予鈴になっていたのだろう。かつて『夢の涯てまでも』を撮影中のヴェンダースは、映画は20世紀最後の贅沢だ、と語ったことがあった。F1も同じものなのだろう。しかし、ぼくはそうした無償の贅沢が大好きだ。