『どこから行っても遠い町』川上弘美梅本洋一
[ book , cinema ]
同じひとつの商店街を行き交う人々とそこある店に集う人々が織りなす11篇の小説を集めた短編集。それだけ書けば、誰でもバルザックを思い出すだろう。BSの「週刊ブックレビュー」を見ていたら、川上弘美がゲスト出演していて、彼女もバルザックの名を口にしていた。
句点が文章の奇妙な位置にふられている彼女の文体と、それがもたらす効果は、この短編集でも同じだが、それについて考えはじめると深みにはまってしまいそうなので問わないでおこう。ヒーローが登場するわけでもなく、特異な体験をするわけでもない人々が織りなす11篇の物語は、だが、全体としてみれば実に奇妙な、そして奇妙であるがゆえに絶対的な存在感を伴ってぼくらに強い印象を残してくれる。その存在感の源は、おそらく、登場人物たちの職業の現実感に依っているのではないか。たとえば『四度めの浪花節』の舞台になっている小料理屋。ここではその女将とずっと年下の下前との長い時間の恋物語が語られるが、その発端になっているのは、こうした描写だ。
「鍋を洗って流しのステンレスをみがきあげ、土間のコンクリに水を流し終えたころ、央子さんもちょうど厨房の外の掃除を終えた」。
そして、板前の「俺」が女将の「央子さん」に話しはじめる。一連の動作と対話の口火とが実に良いリズムで開始され、一連の動作のオトマティスムと具体性が、極めて高次の現実感を生んでいる。この短編集は、こうしたリズムに満ちているがゆえに、おそらく具体的な細部は徹底した取材に基づいているのだろうが、絶対に存在するはずのない「商店街」とそこにいる人々を際立たせている。小料理屋のカウンターに一度でも座ったことのある人なら、店じまい前の上記の光景を目にしたことのない人はいない。普通なら、「お疲れ様」の一語が続き、無言で店を出て行くふたりに接続される日常が続行されるはずだが、ここでは、その日常の終わりの瞬間と、小説の時間の始まりが実に巧妙に接合されている。
だから、ぼくら読者は──いつも川上弘美の小説を読んでいるときと同じように──色濃い現実感の漂う世界から一挙に物語の世界へと運ばれてしまう。BSの番組でも「小説より奇なり」というけれど、友人たちの話を来ていると、小説にすると嘘みたいな本当の話がたくさんある、と川上弘美は語っていた。現実の世界とフィクションの世界の間には、常にそうしたグレイゾーンが口を開けている。この短編集のどの登場人物たちも、その口の中から底なしの時間の襞が折り重なった過去を背負って、「鍋を洗ってステンレスにみがきをあげ」ている。そこから始まる対話は、登場人物が背負った時間の襞をぼくら読者に垣間見せてくれる。いくつもの時間の層を往来しながら、ぼくらは、「かたつもりの殻」のような屋根を持っているペントハウスのある三階建ての魚屋「魚春」に入り、店先に貼ってあるパブロ・ピカソとジャン・コクトーが並んで写っているモノクロの写真を見ることになる。