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December 12, 2008

『チェンジリング』クリント・イーストウッド
梅本洋一

[ architecture , cinema ]

 この壮大な作品についていったい何を書き記せばいいのだろう。いま、こうした作品を演出できるのはクリントしかいないだろう、と考えたこのフィルムのプロデューサーであるロン・ハワードの直感は正しい。自らの企画──それは次作の『グラン・トリノ』を待とう(You tubeでトレーラーが流れている)──ではなく、頼まれた企画の監督を請け負ったクリントの底知れぬ力には溜息が出るだけだ。映画とは何なのか、という途方もない問の解答をすべてのショットで示し、映画の歴史が築き上げ、それを支えた優れた映画作家たちの技を身体的に手の内に入れ、ゆっくりと静かに流れる大河のような作品に仕立て上げるクリントの力。もう一度、溜息が出てくる。たとえば、これはアンジェリーナ・ジョリーが一点を見つめるフィルムなのだ、たとえば、ひとりの女性の力が人々を動かし得ることを示したフィルムなのだ、たとえば、これはグリフィス的なカットバックを十全に利用したアメリカ映画なのだ。いろいろな言い方ができるのだろうが、そのどれも当たっているのだろうが、そんなことを書いたところで、このフィルムの大きな力を言い当てたことにならない。フィルムとシネマを使い分けた安井豊に従うなら、このフィルムはシネマそのものが潜在的に持っている大きな力を信じ切ったものだと言えるかもしれない。
 このフィルムの大きさを前にすれば、映画の現在を支える多彩な試みも小さなものでしかない。映画とはこれでいいのだ、という断言を前にすれば、それで十分なのだろう。映画で人が歩くとは、このフィルムのアンジェリーナ・ジョリーのことを指す。映画で路面電車が走るとは、このフィルムにおけるそれを指す。タイミング良く反対方向から別の電車が走ってきて、すれ違うさまを見れば、そう、これが映画なのだ、と人は納得する。映画における裁判シーンとは、このフィルムにおけるそれである、と書けば、見た人ならば、視線と言葉によって展開するコート・プレイの迫力を思い出すだろう。A true storyという字幕が出る冒頭から、クリスティーン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の部屋のベッドサイドの目覚まし時計が鳴り響くまでのリズムこそ編集という技法の最高峰なのだ、と書けば、それでよいのだろう。つまり、このフィルムについて、ぼくは何も書くことができない。
 多くの言葉を費やして、このフィルムの感動を代替する代わりに、このフィルムに添えられた、ほとんど物語とは関係のないひとつのエピソードを紹介しておこう。クリスティーンの子どもが誘拐されてから7年の時が流れたある春の宵。同僚たちの関心は、その年のオスカーにある。レストランで中継されるオスカーの模様を見ようと同僚に誘われるクリスティーン。「やらなければならない仕事がまだたくさん残っているから。それにラジオの中継を聞いているわ」と誘いを断るクリスティーン。ひとり部屋に残り、仕事にかかろうとすると、彼女に心を寄せているらしい同僚の男性が部屋を覗く。他の同僚たちと同じ誘いだ。同じ言葉を繰り返して誘いを断るクリスティーン。彼が廊下を立ち去ろうとするその瞬間。クリスティーンが彼の名を呼ぶ。「『或る夜の出来事』に2ドル賭けるわ。『クレオパトラ』は評価され過ぎよ」ラジオの中継が始まる。今年のオスカーは……『或る夜の出来事』!「クラーク・ゲイブルとクローデット・コルベールが素晴らしかったわ」とつぶやくクリスティーン。そうだ、あれは1935年のフィルムだ! クラーク・ゲイブルとクローデット・コルベールが素晴らしかった、と、ぼくもアンジェリーナ・ジョリーの厚い唇から漏れる言葉を心の中で繰り返す。あのシーンは、本当に良かった。

2009年2月20日(金)より、日劇3ほか全国ロードショー