『アンダーカヴァー』ジェームズ・グレイ梅本洋一
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ブルックリンにあるクラブ・カリブ、1988年。そこの支配人がロビー(ホアキン・フェニックス)。彼は兄ジョー(マーク・ウォールバーグ)の昇進パーティーに恋人(エヴァ・メンデス)と出かけるところだ。兄は父(ロバート・デュヴァル)と共にニューヨーク警察に勤務している。法の抜け穴そのもののように白い粉が取引されるクラブ、そこを取り締まる警察。兄弟という血縁の強い絆は、法の内側と外側という境界線でもある。考えてみれば、前作の『裏切り者』でもジェームズ・グレイは同じ物語を語っていた。そして背後には、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』があると何度も発言している。
誰でもが持つだろう感想。このフィルムに映っているのはいったいどこなのだろう。何度も発語される「ブルックリン」「ニューヨーク」という言葉から、もちろんここはニューヨークなのだと知るだろうが、ぼくらが知っているニューヨークのランドマークとは一切無縁な場所ばかりが、『裏切り者』にも『アンダーカヴァー』にもたくさん出てくる。『裏切り者』の原題は『Yards』、つまり操車場だ。列車や貨物列車が入れ替わり立ち替わり入線しては出ていく場所。暗い深夜の操車場とどこだか分からぬ場所にある汚れたアパートが主な舞台だった。町中にある駅ではなく、人里離れた地下鉄の操車場。そして、このフィルムでも、ブルックリンのどこにこのクラブ・カリブがあるのかは判らない。どこでもないが、どこかにある場所。決して田舎ではない。都会なら、世界中のどの大都会にも存在すると思われる、人と人がめったに出会うことのない場所。大都会のエッジにある川と、その周囲をめぐる葦が生えた空き地。ウディ・アレンのニューヨークでも、マーティン・スコセッシのリトル・イタリーでもない。極めて具体的であるニューヨークのとある場所。その場所のことを、その年をよく知る人なら判別することができるかもしれない。だが、同時に、世界の大都会なら、ぜったいに存在するだろう抽象的な都会のエッジにある場所で蠢く登場人物たち。都会に住むぼくらは、そうした登場人物のことをよく知っている。ジェームズ・グレイが好んで採り上げるのは、具体的であるがゆえに抽象性の高いそうした場所と人物たちだ。
都会、そして家族の絆、その絆を境界線にして登場人物たちが行き交う姿は、明らかに『若者のすべて』そのままだ。そして、そこで背負うことになる原罪という意識も、ヴィスコンティのフィルムに負っているかもしれない。
そして、このフィルムが1988年の物語であることも注目すべきだろう。ソ連が解体する直前、世界中に居場所を探すロシアン・マフィアたち。いずれは彼らの一部がロンドンに流れて、エスニックな中心を作り上げ、それがクローネンバーグの『イースタン・プロミス』になっていく。そして、この時代、世界のあらゆる境界線は溶解を始めるだろう。兄と弟、警察と犯罪者、それらの間に太い線で描かれていた境界線は次第に薄くなり、まるで、このフィルムのラストにある川と葦の原の間の湿地のように、どこまでが川でどこまでが陸なのか不明瞭な世界が、明らかにこの時点で生まれてきたのだろう。おそらく、そんな世界は今も継続している。『トウキョウソナタ』を見れば、そのことが分かる。優れたフィルムは、どれも世界と関わっている。
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