『近代日本の国際リゾート──1930年代の国際観光ホテルを中心に』砂本文彦梅本洋一
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建築史家、砂本文彦の博士論文が下敷きになった大著である。大東亜共栄圏に向けて中国侵略を開始した時代、当時の鉄道省を中心に、日本で初めての国際観光ホテルの建設が進んでいたことは知られている。外貨不足が侵略という軍事的な結末を見た当時、外貨不足を観光立国で補おうとする政策も進められていた。もちろん観光立国政策は戦争に向かって頓挫することになるが、その政策の成果が、30年代に建設された国際観光ホテルである。本書は、12軒の国際観光ホテルを採り上げ、同一の視点から、それぞれにスポットを当てて記されている。
ぼくも、この書物の著者と同じような関心をずっと持っていたので、この長大な博士論文を一気通読してしまった。先日、神保町の学士会館で昼食をとる機会があったが、そこのダイニングルームのカーテンや窓枠、そして窓の位置取りなどを見ていると、小さいときに行ったことのある焼ける前の赤倉観光ホテルのダイニングルームそっくりだった。小学生の時、赤倉にスキーに出かけたぼくは、父と観光ホテルのダイニングルームでビーフストガノフを食べた。ゲレンデの中心に立つ赤い屋根のホテルのダイニングの雰囲気は、それまでスキー場で入った食堂とはまったく異なるものだった。よく糊のきいたリネンのナプキンが同色のリネンのクロスの上に置かれ、磨かれた銀製の食器が並べられていて、子ども心にかなり緊張したのを覚えている。それまでスキー場の昼食といえば、ラーメンや豚汁だったのとは大きな相違があった。大きな窓からゲレンデを眺めながら、コンソメ、ビーフストロガノフ、野菜サラダの昼食をゆっくりととっているととても豊かな気持ちになった。赤倉観光ホテルは、64年に焼失し、2年後に当時の意匠に似せて再見され、今でも健在だが、ダイニングルームの内部の意匠は、ずっと簡素化されている。学士会館で、先代の赤倉観光ホテルを思い出したのは、考えてみれば、当然のことだった。学士会館も赤倉観光ホテルも高橋貞太郎の設計だからだ。
またこんな思い出もある。家族で数年前の夏休みに伊豆に行った。帰りに川奈ホテルに寄ってお茶を飲んだ。有名なゴルフコースの向こうに伊豆七島を眺めながら、ぼくらはそのホテルのサンルームでくつろいだ。内部を回ってみると、その太陽光が溢れるようなサンルームの他にもロビーがふたつあって、そのうちのひとつは談話室と名付けられていた。その高い天井の周囲にはキャットウォークがめぐっていて、窓と反対側には何と16ミリの映写機が設置されていた。昔の客は、夜この場に集って映画界を催していたのだろう。不思議な空間だった。調べてみると、川奈ホテルも高橋貞太郎の設計だった。そして赤倉観光ホテルも川奈ホテルも、当時の帝国ホテル社長の大倉喜七郎の肝いりで建設されたものだった。
赤倉観光ホテルも川奈ホテルも、それぞれ絶景の地に建っている。リゾートホテルとしての立地がこれほど優れた場所をぼくは知らない。後発の西武系のリゾートホテルである苗場プリンスやニセコ東山プリンスにも泊まったことがあるが、まるで病院か学校か(あるいは刑務所)のような建物で、まったく好きになれなかった。ぼくの疑問は大きくなった。なぜ戦前の「暗い時代」にこのようなリゾートホテルが建てられたのか? だいたい客はいたのだろうか?
だからそれ以来、今はクラシックホテルと呼ばれることも多い、それらのホテルについて調べ始めていた。そしてこの書物に出会った。博士論文であるせいか、文章に面白みはないし、著者もそんなものを求めていないのは残念だし、いくつかは現存するそれらのホテルを訪ねたろうが、これも学術論文の体をなしているので、個人的な感想はいっさい書かれていない。だが、この書物には多くの情報がある。井上準之助が低利の融資を決断したことで、これらのホテルの建設が実現したこと。軍事的な大東亜共栄圏の切望と、これらの国際観光ホテル建設は、表面的には正反対に見えるが、それぞれが当時の日本の状況を反映していたこと等々、興味深い指摘も多い。当時の建築雑誌から採られた豊富な写真資料が貴重だ。それらの写真を見ていると、当時のぼくの父や母の生活空間とホテルの空間との絶望的な距離が思い浮かぶ。富士ビューホテルのバスルームの案内には、猫足のバスタブが載っている。ぼくの両親は銭湯に通っていたはずだ。つまり、当時の国際観光ホテルの空間は、日常からは極めて遠い、別の空間を提供している。
不思議なのは、今、その空間を訪ねても、やはり、そこは日常とはまったく別の空間であることだ。2年ほど前に赤倉観光ホテルに泊まったが、そこで供されるフランス料理は、決して東京で食べることのできない、「かつての」フランス料理だった。もうフランスにも存在していないようなフランス料理だ。リゾートとは、日常の延長ではない。まったく別の想像的な空間なのだ。当時の国際観光ホテルは、今なお、そういう空間を提供し続けている。