『Casa BRUTUS』2009年2月号 最強・最新! 住宅案内2009長島明夫
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ここ数年、1年に1冊は『Casa BRUTUS』を買っている。1998年に季刊として創刊し、2000年に月刊化、今号で通巻107号になる同誌では、2004年の3月号(通巻48号)で初めて日本の新作住宅を特集し、翌2005年以降は毎年2月号で、その1年間をまとめる住宅の特集「最強・最新! 住宅案内」を組んでいる。それが今年もまた書店に積まれた。
今号も内容は充実している。まず中村拓志や藤本壮介、五十嵐淳ら人気建築家の新作住宅が載り、そして読者の生活と連続的でありうるリノベーション事例や新築集合住宅の物件紹介など、特集の基本が押さえられる。また、阪神・淡路大震災で半壊判定を受けた木造家屋の改修である「ハンカイ」ハウス(設計:宮本佳明)や、白井晟一の試作小住宅(竣工1953年)の移築についてなど、通好みの企画も心憎い。後半では複数のメーカーとのタイアップ企画にも少なくないページが割かれているが、おそらく『Casa BRUTUS』の主要な読者にしてみれば、たとえそれに大きな興味こそ湧かないにせよ、雑誌全体を白けさせるようなページにもならないだろう。メインの新作紹介では、ことさらメディア映えのする住宅が選ばれる傾向や、取材文の内容が設計者による設計主旨の範囲を出ない点はやや残念に思えるものの、それでも一般誌として十分納得できるレベルには違いない。「最強」というのは大げさにしても、毎回の顔ぶれが変に固定されることもなく、何年分かを通覧すれば、専門家や専門メディアによって形づくられる住宅の最前線をなぞってみることもできる。
もともと『Casa BRUTUS』は、「なんたって建築家!」と言いながら建築家を身近な存在として見出し、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエ、あるいは安藤忠雄らの「巨匠」を一般目線からフィーチャーすることで、建築デザインを扱った雑誌としては驚くべき販売部数を誇っていた。そのアプローチの好き嫌いはあるだろうし、内容に多少の粗は指摘できるにせよ、それは建築の分野に限らず、日常的な感覚から楽しげに専門領域を開く一般誌のあり方としても特筆すべきものだった。
しかしそうして再発見してきた「巨匠」にも当然ながら数に限りがある。また読者のリテラシーも増え、近年は毎月の特集テーマの設定に苦労しているようにも見受けられる。そんななか、流行のレストランやホテルといった「ブルータスらしい」特集よりも、この住宅特集をはじめ、日本建築特集、世界遺産特集など、より専門的、建築学的な裏打ちがあり、資料性に富んだ特集のほうが、続編も作られ、好調な売上げを見せているらしいことは知っておいていいだろう。
一方、『Casa BRUTUS』の成功も影響してか、以前からの建築系メディアでは、雑誌にしろムックや書籍にしろ、初学者や一般層への読者の拡張を狙った刊行物の増加が目につく。住宅についても、近年さまざまな硬軟の差こそあれ、住宅を建築家の概念的な住宅論からでなく、より実際的な生活の側面から捉えるものが増えているように思う。昨年11月に刊行された『ハイデッガーの建築論―建てる・住まう・考える』(中村貴志訳・編、中央公論美術出版)は、建築と生活が論じられる際にしばしば拠り所となる1951年の講演録だが、そのテキストがようやく日本語で読めるようになったのにも、こうした時代の気分の反映が見られるかもしれない。
ところでハイデガーなり古今東西の哲学者や文学者が住宅を重要なテーマとして語ってきたのは、住宅というものが生活と抜き差しならない関係にあり、人間の存在のリアリティを担保するものであるからだろう。しかし、はたして今メディアに載る「生活」という言葉にそのリアリティがどれだけあるだろうか。
『Casa BRUTUS』が提示した消費社会的な建築像、建築家像は、ともあれ日常的なひとつのリアリティを捉えていた。しかし当然それも限定されたものであり、ある個人、ある集団にとっては、概念的な住宅論や水平・垂直の建築写真にこそリアリティを持つだろうし、また別の個人、集団にとっては、流し台や便器のスペック、あるいは不動産の投機価値にリアリティがあるのかもしれない。いずれにせよ、そうした個々のリアリティが存在する場こそ、「生活」と呼ぶべきものに違いない。「本物っぽい」ではなく、「真に迫る」という意味でのリアリティが、多様性を保ちながら併存する。『Casa BRUTUS』の充実もそのような地勢のなかで捉えたい。