『我が至上の愛 アストレとセラドン』エリック・ロメール梅本洋一
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ずいぶん前のことになるが、「別冊宝島」が映画特集をしたことがあった。その中に安井豊が、とても面白いロメール論を書いていた。タイトルは『いい加減にしろよ、じいさん』だったように思う。たとえば、ロメールの歴史物をめぐって、バザンに遡って写真映像の存在論を論拠に、まじめな文章をぼくも書いたことがあった。この『我が至上の愛』にしても、耳に響いてくる変なフランス語──17世紀の書き言葉そのまま──を『O侯爵夫人』などと比べてまじめに論じることもできるだろう。ロメールがなぜこうしたことをやっているのかと解説する気になれば、『美の味わい』の訳者としてもいくらでも解説することができる。だが、このフィルムを見ていて大笑いしたぼく自身を思い起こせば、今、そうやってしたり顔でロメールを「解説」する気にはぜんぜんなれない。安井豊の文章のタイトルを、そのまま今年89歳になるロメールに言いたい。「いい加減にしろよ、じいさん」と。
でもまちがえないで欲しい。「いい加減にしろ」と言っても、もう「やめとけよ」という悪い意味ではまったくない。笑いをこらえて──否、ぜんぜんこらえられなかったけれども──顔を崩したまま、「いい加減にしろよ」という感じだろうか。もちろん、これでいいのだ。この作品の透明感がすごい。だから「いい加減にしろよ」と言いたい。虫の声や葉のざわめき、木々の揺れを伝える音──そういったもののすべては、それまで、この「じいさん」が50年近くにわたって映画で実践してきたものの集大成だ。木々の緑色はどうだ。曇天から晴れ間が出てくる光の変容はどうだ。若い女性たちの羽織る衣裳から漏れる乳房の揺れはどうだ。若者たちを見つめる老人の眼差しはどうだ。やはり、「いい加減にしろよ、じいさん」は正しい。ひたすらセラドンを愛しているアストレを演じているステファニー・クレアンクールよりも、ちょっと意地悪な感じのガラテを演じているヴェロニク・レーモンの方がぼくの好みではあるけれども、ロメールが、ぼくの年齢で撮った『愛の昼下がり』の頃は、ロメールはズーズーのちょっとエッチな感じが好きだったらしいので、生きているかどうかも分からないが、あと30年もすれば、ぼくもステファニー・クレアンクールのような若さそのものの身体を好むようになるのだろうか、などと考えてもみた。ロメールの場合、昔からロリコンだったようだし、結局、彼のどの作品を見ていても、ちょっと危険な感じがするけれどもやたら美しい女性よりも、より若く純粋で待っている女性の方が勝利を収める。『愛の昼下がり』もそうだし、『モード家の一夜』では、フランソワーズ・ファビアンよりもマリ=クリスティーヌ・バローが選ばれてしまうし、『海辺のポーリーヌ』では、アリエル・ドンバールよりもアマンダ・ラングレの方にロメールの親愛なる眼差しが向けられている。やはり、もう一度、「いい加減しろよ、じいさん」と言いたくなった。ちょっとしつこいね。
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