『ラーメン・ガール』ロバート・アラン・アッカーマン松井宏
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『ラーメン・ガール』は決して出来の良いフィルムではない。むしろ多くの失敗や穴がある。ところが穴から垣間見える美徳のようなものがある。ところがそれを美徳と呼んでいいかどうかは、やはりまったく確かではない。
ブリタニー・マーフィと西田敏行主演なのにまったく世間を騒がせなかったこのフィルムは、始まって一瞬『ロスト・イン・トランスレーション』の30歳版かと思わせるが、実際はあっけらかんとそんな危惧を掃き去ってくれる。物語は至極単純。遠く東京にいる彼氏を訪ねながら無惨にも捨てられたアメリカ人女性が、一杯のラーメンの味に感動し、ラーメン職人に弟子入り志願する。師匠に罵倒されつづけながら、それでも歯を食いしばって一人前になり、そのなかでアジア人の新たな恋人も獲得してゆく…。本当にそれだけだ。
さて昨年の『TOKYO!』ミシェル・ゴンドリー編『インテリア・デザイン』で気持ち悪かったのは、トーキョーのクリシェというより、逆に(いや「その延長で」と言うべきか)このフィルムの異様なまでの「日本化」だった。中原昌也氏はそれについて「日本人になりきった嘘の親しさで本質をごまかす」と書いていた。日本映画化ではなく、あくまで日本化。だからこのフィルムはつまらない、そして気持ちが悪くて、鬱屈だけを残す。
そんな行き場のない鬱屈をいまだ抱えながら『ラーメン・ガール』である。舞台はなんと円山町。かの渋谷円山町だ。だが驚くべきことに、ここにはスクランブル交差点もラブホテル街も一切映されない。多くの時間がラーメン屋内で進行するのを差し引いても、これには驚かされる。だがなぜ映されないのか?簡単だ。物語に必要ないから。
さらに、もちろんふたりが互いの言語を解さないという初期設定が物語にあるわけだが、彼らは結局最後まで言葉どころか、心の交流さえ中途半端なままだ。おそらくこれは演出上の失敗ゆえの中途半端さなのだろうが(いやしかしマーフィの顔にはしばしば役を越えた真の異邦人の戸惑いが刻まれていたようにも思う…)、ところがその中途半端さが、奇妙で笑ってしまうほどの潔さに転換してしまう。なぜ言葉も心も必要ないのか?簡単だ。スープが美味けりゃそれでいいから。
どうにも当たり前のことを言っている気もするが、しかし一方でトーキョーのクリシェと、また一方で嘘の親しさの「日本化」と、それらに挟まれ鬱屈を抱える者にとって『ラーメン・ガール』は一服の清涼剤のように機能してしまうのだ。決して出来の良いフィルムではない。けれど文化的風俗的へつらいをほぼ脇に追いやって(もちろんそういう要素は存在するにきまってるが)、ラーメンという装置を軸に、兎にも角にも物語とマーフィの魅力にしがみ付いて手を離そうとしないこのフィルムは、やはりれっきとした映画でありアメリカ映画だと思うのだが、しかし残る最後最大の疑問とは、ではなぜに東京で、渋谷で、しかもラーメンなのか?というものなのだった。