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February 11, 2009

『レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで』サム・メンデス
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 「あれから11年後……」ということは、『タイタニック』からもう11年が経ったということか。ぼくも歳をとったものだ。レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが、1955年のニューヨーク郊外に住む夫婦を演じている。妻は女優を夢見ているが挫折、夫は家族を支えるために大企業のビルの15階で「死ぬほど退屈な仕事」に耐える。ふたりは郊外の「レボリューショナリー・ロード」という呼ばれる一角に素敵な家を購入する。そうした停滞を一気に解消しようと一家でパリ移住を試みるが……。
 ケイト・ウィンスレットの夫サム・メンデスがメガフォンをとっているが、1961年に書かれたイエーツ・リチャードの小説を2008年に映画化するのがなぜかは分からない。だが、妻が家を守り、夫が外で働くという50年代にはごく普通だったモラルが、このフィルムに背景にあり、郊外に建ち並ぶ2階建てで庭のある住宅と、マンハッタンの高層ビルがその風景を作っている。11年後のふたりが演じるのは、巨大な客船の沈没の犠牲になる若い恋人たちではもうない。お金がないわけではなく、それなりに人生の「勝ち組」に身を落ち着けることができた夫婦が持つ漠たる不安。パステルに塗り分けられた2階建ての家の群、近所に住む精神を冒された息子を持つ老夫婦。数学のPhDを持つというその息子と会って欲しいと頼まれる若夫婦。もちろん、隠匿された不安を「狂気」の息子が次々に言い当てることになるだろう。いったいどちらが「狂気」でどちらが「正常」なのか? 妻は、体に変調を来し始め、夫は、会社を辞めようとした矢先に社長から大きなプロジェクトに誘われる。
 そこからディカプリオとウィンスレットのふたりの演技が開始されることになる。狂気と正常の境界線、つまりボーダーラインを「演技」すること。俳優という職業を選んだ人たちなら、無条件に、このボーダーラインを演技するのは快感だろう。もちろん、ここでぼくらは、ピーター・フォークとジーナ・ローランズを思い出す。『こわれゆく女』を思い出す。ディカプリオとウィンスレットの「健闘」は認めよう。だが、「健闘」することは悪いことではないが、ぼくらに恐怖を感じさせるほどではないのだ。
 それよりも、ぼくを驚かせたのは、パステルの色調に建ち並んだレボリューショナリー・ロードの家々が、ごく最近のニュースで見る“For sale”という看板が立ったサブプライムローンの破綻で空き家になった今の家々とそっくりであることだ。この程度が「幸福」であり、この程度がアメリカン・ドリームの目的であるなら、パリでのボヘミアン生活の方が何倍もワクワクする時間が得られることは明らかだ。

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