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February 15, 2009

『東京夢幻図絵』都筑道夫
渡辺進也

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  これは小林信彦氏の本のなかで書かれていたことではなかったかと思うのだけど、東京はおよそ20年周期で変貌するのだそうである。その変貌の要因となった出来事、また具体的な開発などを列挙するとこうなるのではないか。1923年関東大震災、1944年東京大空襲、1964年東京オリンピック、80年代後半から90年代初めのバブル経済による高層ビルの乱立、2000年を挟んだ時期に相次いだ大規模商業施設の開発(1994年恵比寿ガーデンプレイス、1996年タカシマヤタイムズスクエア、2003年六本木ヒルズ、2006年表参道ヒルズ、2007年東京ミッドタウン……)。そんなに単純に図式化できる話ではないと思うし、他にも大きな変貌があったと言われれば不勉強を恥じるしかないんだけれども、それでも自分で書いていてビックリするのはだいたい20年ごとにこの都市には何かしらの大きな変貌があり、最初に書いた説がやたらと辻褄が合うことである。そして、もしこの説が引き続きこれからも正しいことが証明されるならば次に起こるのは「オリンピックは儲かるんだよ」という某知事の発言が記憶に新しい、2016年の東京オリンピックによる臨海地区の開発ではないかと思ってしまうのは簡単なことでもある(ちなみにいま東京臨海地区に強い関心を抱いているのは、映画を見る限りだが黒沢清監督ではないか。ここ2作ばかり主人公たちは臨海部に吸い寄せられている)。
 しかし、それはそこに住む人々にとっては変貌させられたと言ってもいいような、暴力的と言ってもいいような変貌なのではないか。一方でそうした大きな変貌ではない小さな変化もまた存在するのではないか。そして、前置きが長くなってしまったけれども、そうした小さな東京の変化を探偵小説や怪談のようなエンターテインメント作品のなかに記録した小説家のひとりとして都筑道夫がいるのである。
 『東京夢幻図絵』は2008年秋に扶桑社から、小栗虫太郎などの作品ととともに、「昭和ミステリー秘宝」というシリーズで復刊された。ここには、昭和初年から第二次世界大戦までの「東京」を舞台に、東京で起こった事件を当時の庶民風俗を描きながら書いた12篇の小説が収められている。題材となっているのは玉の井バラバラ事件だとか、上野動物園から黒豹が逃げ出した事件だとか、東京五月大空襲などなのであるが、そこには縁日のガラスの知恵の輪だとか浅草松屋の屋上の遊び場だとか、靖国神社のサーカスだとか、神楽坂の市だとか、落語・講談の行われた寄席(ちなみにこうした寄席が後に映画館になる。いまはもうそういう映画館もなくなってしまっているんだろうけども)など事件に直接関係ない風俗が頻繁に描かれるのである。むしろ風俗が書きたくて作った話もあるそうで、縁日なんて基本的にわくわくするものだから楽しく読んだのである。
 都筑道夫の小説は、昨年の夏くらいから結城氏に薦められて読み始めたんだけれども、すぐ読み終わるうえにちゃんとジャンルを守っているものが多いものだから中毒のように次々と読んでしまうのである。浅草のホテルを舞台にした「ホテル・ディック」シリーズが個人的には一番好きなんだけれども、都筑道夫の作品を読んでいくなかであとがきによく書かかれている好きな一節があるのである。この本のあとがきで言うとこの部分である。「庶民の生活風俗を、言葉でくわしく説明しておきたい、というのが私のねらいの大半だった。庶民の歴史の上で、どんな些細なことでも、――たとえ夜店で売っていたくだらない玩具のことでも、わからなくなっていい、というものはないはずだから」。
  「どんな些細なことでもわからなくなっていいというものはない」。この一節を都筑道夫は頻繁に書いていることなのだと思うのだけれど、僕はなぜかこの言葉にすごく惹かれるのである。この一節に触れるたびに「おぉー」と思ってしまうのである。たとえば、この短編集についてノスタルジアで色濃く塗りつぶされているなんて表現を著者はしているけれどもこれは本当に「ノスタルジア」なのだろうか。ホテルで缶詰めで原稿を書く都筑道夫の机の横には物凄い数の資料が山積みになっていたと聞く。「ノスタルジア」のためにそこまでするだろうか。
  東京という都市で生活するとき、この都市をみつめるとき、この都市を記録しようと思ったとき、スローガンとなるべきはこの一節なのではないだろうか。たとえば、これからも東京は変貌を繰り返すだろう。僕らの知らないうちに、気がついたら結果として変貌しているはずである。その時間のなかにいるとき、この一節は忘れてはいけない気がする。