08-09チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1st Leg
アーセナル対ローマ 1-0梅本洋一
[ cinema , sports ]
久しぶりに躍動するアーセナルのゲームを見た。
プレミアリーグでは5ゲーム連続のドロー。中盤から前戦にかけての連動が乏しく、もうこのチームを応援するのはよそうと思うくらいだった。別にロンドン在住でもないし、このチームを応援する理由などもともとなかった。だが、前世紀の終わり辺りから、ショートパスとミドルレンジのパスを組み立てながらスペースを創造するこのチームのフットボールに魅せられ、構成するメンバーがほとんど代わっても、このチームの現状を常に追いかけてきた。ある作品に感動し、同時にその映画作家を発見し、その人の作品をずっと見続ける行為と同じだ。映画における作家主義をそのままフットボールに持ち込み、アルセーヌ・ヴェンゲルの作品を追い続けてきたわけだ。
だが、最近の作品は「駄作」ばかりだった。時差を越えてゲームを見ていると、疲労や眠気を吹き飛ばしてくるのは反対に、全身を倦怠感が包み込むようなスポーツの快楽とは真逆の事態が続いていた。原因はいくつか考えられる。まずは昨年までに築いてきたフットボールの担い手たちの移籍や故障──これについては何度も書いた。それに代わる選手たちの若さが主原因である経験不足。どのラインにも10代の選手を先発させざるを得ない現実は、やはり選手層の薄さを露呈させている。そして、ヴェンゲルの頑固さ。歳をとれば誰でも頑固になるが、特に人が代わってもまったくフォーメーションを変えないこの人の性格はフレキシブルな流動性を拒んでいるとさえ思われた。
だが、このゲームでは、ヴェンゲルは頑固さを捨てて、フレキシビリティを選んだ。徹底して拘った4-4-2を捨てて、4-2-3-1 を採用し、2シーズン前から置いたことのないトップ下のポジションにサミル・ナスリを入れたことだ。そして、それまで退屈さの主原因になっていたセントラルのふたり──デニウソンとソング──のコンビをデニウソンとアブー・ディアビに代えた。左ワイドにベントナー、右にエブエ、ファン・ペルシの1トップ。詳細に見れば、ベントナーとナスリの並びを左右に入れ替え、ナスリのポジションを少しだけ下げた。それだけでチームが活性化した。ソングとデニウソンの極めて単調な横パスの交換がなくなり、ディアビはまず「勝負」を選択する。エブエはボールを前に運ぶことに徹し、もともとなかった創造性を求められなくなった。自由を与えられたナスリはその自由を謳歌するように、前戦にパスを送り、ときにはシュートを狙った。左ワイドのベントナーがシュートを外しまくらなければ、おそらく4-0のゲームだったろう。もちろん、左ワイドにロシツキが復帰し、セントラルにセスクが復帰し、右ワイドにウォルコットが入れば、もう盤石だろう。アデバイヨール、エドアルド、アルシャーヴィンなど、これからは明るい材料しかない。
耐えることばかりが仕事だったぼくらファンには少しだけ希望が見えてきた。