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February 28, 2009

『このあいだ東京でね』青木淳悟
黒岩幹子

[ book , cinema ]

 表題作の中編1本と短編7作――うち1本は、「ごくごく一般的な戸建て住宅をまるごと一軒『トレースするだけ』の小説」の創作ノートに、西沢立衛設計の個人住宅への訪問記を(注釈の形態を用いて)添えたもの――で構成されたこの本は、青木淳悟の3作目の小説集とのこと。表紙カバーではどこのものともわからぬ白地図に、番地と思われる数字や信号とバスのマークだけが描かれていて、そのカバーをとると、やや高い位置(信号が取り付けられているあたりか?)から交差点を俯瞰して撮った写真が敷かれている。右上端ぎりぎりに「宮益坂上」という交差点名標識が見えるが、ほぼ道路と車しか見えず、唯一確認できる周囲の建物はその「宮益坂上」標識の奥にある「渋谷安田ビル」という建物(2階の窓の半分あたりで写真は切れている)だけだ。
 この表紙が暗示するように、本書に収められている小説群は東京という都市を描いてはいない、が、一方で東京という都市について記述している。簡単に言えば、東京の小説ではないが、東京を知っているからこそ書ける小説、といったところか。ここで「東京で暮らしているからこそ」とせずに「知っているからこそ」としたのは、この小説群には人格を持ったある人間の「生活」がほぼ存在しない(同時に著者の「生活」もまったく感じられない)からなのだが、不思議なのは、この本を読んでいると、東京に暮らしながらこの都市のことをよく知らないでいることは大いに可能だが、東京を知るためにはそこで暮らすしかないように思えてしまうことだ(それが正しいか正しくないかはさておき)。東京の道路交通環境についてひたすら記述しながら、いつのまにか福岡―東京間の交通路に話題が及ぶ「TOKYO SMART DRIVING」という短編もおさめられているが、この本の文章は「cruising」や「sightseeing」はしていないが、たしかに「driving」している。周りの目につく建物ではなく、道の形状や標識を叩き込んでぐんぐん走っている(そこからはじめて周囲の風景が浮かび上がってくる?)ような文章だ。
 ただ、そんななかで東京の具体的な風景、この街の空気をダイレクトに感じさせるような文章が唐突にあらわれたりすると、やっぱり嬉しくて、まんまとしてやられたようで悔しくもある。たとえば表題作「このあいだ東京でね」は、「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間が東京都内に新たな住居を探し求めていた」という一文から始まり、都心の範囲とはどうこうとか、ローンのプランの検討だとか、不動産広告やらモデルルームやらがどうだとかが、あちこち微妙に脱線しては戻るかのごとく語られていき、「複数の人間」の姿も家探しにまつわる悲喜こもごものドラマもあるようでいてないまま、いつの間にか誰かが探し当てた新居らしき高層マンションの窓の話に行きついている。そして途中突如現れいつの間にか消えていた「私」=「個人信用情報いわゆる個信を調べてみるべく、東京は千代田区丸の内の一角を訪れる私」が最後に再び丸の内に現れる。先ほど「東京駅正面に延びる広い通りを直進して皇居のお濠にぶつかって右に曲がったすぐのところ」にある「銀行会館ビル」の「全国銀行協会」に足を運んだはずの「私」だったが、ここにきて「『お濠にぶつかって右』という交差点をうかつにも渡ってしまい」、道に迷っていたことが告白される。

「まさかこんなところで道に迷うとは思わなかったし、他人にもそう思われたくなかったので、こうして濠端をしばらく歩いていったのである。どこか取りつく島もないようなほど広々としたこの都市景観の底の地面を。/ところで風はうしろ側、つまり日比谷方面から吹いてくるようだったが、あの強風は海が近いために吹くのだろうか。海上から浜離宮庭園へと吹き込み、汐留のビル群の間をかすめて通り、そこから西新橋とか内幸町の交差点に出て日比谷通りを北上してきたのではなかろうかと。もしかしたら『浜離宮庭園~日比谷公園~皇居前広場』と、そこに都市公園を結ぶ風の道があるのかもしれない」(完)

 地理的・物理的観点からそこに「風の道」があるかはさておき、今度そのルートを歩く時、私は間違いなく「風の道」に思いをはせてしまうだろう。私はこういうのに弱い性質ではあるが、それを差し引いても、やはりこの人の文章にはある種の力、読者の喚起を呼び起こすような力があるように思った。