『黒人大統領誕生をサッチモで祝福する』平岡正明田中竜輔
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いったい最新の著作がどれなのかいつもわからなくなってしまう平岡正明氏だが、昨年11月に出版された最新刊である本書のことも今年に入って2月の終り頃にようやく知った。偶然この強烈なタイトルに惹かれて本を手にとって初めてそれが平岡正明の著作であることに気づいただけのことだが、「一九〇〇年、三遊亭園長が死に、ルイ・アームストロングが生まれた。したがってジャズは落語の生まれ変わりであります」、という100p近い書き下ろしの表題論考冒頭2文にやられて即購入。後になって気付いたことだけど、この論考はあとがきを見る限り昨年の8月末頃までに書かれたものであり、バラク・オバマの当選はもちろんまだ決まっていない段階で書かれている。さらには発行日が11月5日で、それは日本時間でちょうど大統領選の当日だ。バクチというか粋というか、とにかくこの日付だけでも平岡正明という人の持つ強さというか、気概が見てとれる。
あとがきでまとめられているこの論考の命題はふたつ。ひとつは先にあげた「一九〇〇年~ジャズは落語の生まれ変わり」だというもの、そしてもうひとつが「サッチモ一九二八年の「ベーズン・ストリート・ブルース」のあまりのすばらしさが、八十年後にアメリカ合衆国に黒人大統領が出ることを予言している」というもの。本論はこの80年というスパンに関する記述よりも、1917年から1928年、すなわちニューオリンズのストーリーヴィルの閉鎖からサッチモの「ベーズン・ストリート・ブルース」が生まれるまでの、あるいはその翌年に「大恐慌」を迎えるまでの時間における、サッチモの、あるいは黒人音楽としてのジャズの「個性」を検証することにウエイトが強くおかれている。その中でもアーサー・ルービン監督による映画『ニューオリンズ』についての分析は本論の山場と言っていいだろう。ストーリーヴィルという聖地を失った人々がその街を出ていく様子が、出エジプトのユダヤの民に、あるいは「パンパン狩り」における落語家たちの「敗戦記念日」であるところの昭和33年3月30日(売春防止法の施行前日)に重ね合わせられる。これを読めば、誰でも『ニューオリンズ』を見てみたくなるだろうし、やっぱりサッチモを聴きたくなるだろうし、志ん生「首ったけ」だって聞きたくなるだろう。私も早速500円DVDの棚へ未見の『ニューオリンズ』を探しに行こうと思っている。
ところで個人的に非常に爽快に思えたのは、このタイトルが示すところであるサッチモからオバマへと自論を繋げる次のような個所だ。「サッチモはアメリカ社会の黒人と白人の関係を組み替える方法を提示した。ジャズだ。ジャズはアメリカ社会の中で黒人が主力をなす民族文化であって、この民族文化を形成したために、アメリカ黒人はアメリカ社会の中の孤立した人種であるという受動的な位置をはね返している」(p86-87)、これに引き続いて平岡はこう述べる。「あるじゃないか、バラク・オバマがアメリカ社会の黒人と白人の関係を組み替える方法が。バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領になることだ」(p87)。
この思わず笑ってしまいそうなほど明快な平岡氏の論が実際に正しいかどうかなんてことは、もちろんこの先のバラク・オバマを見ていかなければわからないけれども、とにもかくにも、まずこのような視線で文化や芸術を見ることを提示することというのは、大切なことだと思えた。「こういう結果を残した、だからこれは素晴らしい」ではなくて、「これは素晴らしい、だからこそこういう結果が残っている」という論理の清々しさは、サッチモの、ジャズの、そしてブラック・パワーの凄さそのものなのだと、そう読まされてしまったのだ。ニューオリンズという街への視点が、ハリケーン「カトリーナ」によって「陸地の果て」ではなく、アフリカ、大西洋、カリブ海、メキシコ湾内の諸都市とを繋ぐ「海からの視点」として捉えられることが一般化したと述べ、その地に対する人々の愛着を「江戸深川の新内、ラ・プラダ川河口のタンゴ、ニューオルリンズのジャズ。海抜ゼロメートル地帯の粋は、水も滴るほどだ」(p45)と並べ述べてみせるくだりは、もちろんその悲しい出来事によって導かれたひとつの「結論」ではあるかもしれないが、その「結論」が何かを正当化するような身振りを有しているわけではない。「海抜ゼロメートル地帯の粋」というものがおそらくある、そしてそれは素晴らしい、だからそれを論じてみせる――これはとても清々しい循環だ。もちろんこのような清々しさは、その対象の背後にある複雑な様相を意識せずには生まれえないものに違いない。本書とはまったく関係ないのだが、ジャック・リヴェットのホークス論における「あるものはある」の一節を、ふいに思い出した。