『オーストラリア』バズ・ラーマン松井宏
[ DVD , cinema ]
165分。2時間45分。この長さをどう処理するか。まずは半分真っ二つに割ってみる。しかしそれでも手に負えない。ということで、後半部をさらに細かく割ってみる。そうして完成したのが『オーストラリア』だ。とでも言いたくなるような、つまり予め一大叙事詩として構想されたゆえに求められた諸ジャンルの混合が(西部劇、ラヴロマンス(植民地系)、戦争ものetc.)必然性を奪われ、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」に堕してしまうような、そんな印象を与えてしまう事実がこのフィルムの弱さであるのは間違いない。だがなぜか『オーストラリア』は憎めない。バズ・ラーマンは憎めない。なぜだ。
物語はあるが語りがない。と『オーストラリア』をそう言えばよいのだろうか。「人生には物語=storyと夢が必要だ」とは、様々な登場人物を介して幾度も口にされるほどに、このフィルムの主題なのだろう。そしてこのバズ・ラーマンは見事に物語を手にする。だがしかし、ここで「夢」とはいったい何なのか?
その夢とは、観て頂ければすぐに分かるが、要するにナラという名の混血児(アボリジニとイギリス人との混血)の背にかかっている。つまりアメリカ合衆国におけるのと同様、人種の混合と再配置が一種の理想として、ラストあたりどんどん浮上する。だが重要なのは、そもそもこのナラ=Nallahという少年は、lとrの違いさえ意味ありげなほどに、「narration=語り」を背負う存在なのである。そしてときどき、この「語りくん」がガッシリ物語に介入するとき(たとえば『赤い河』流の牛の暴走を、呪術師の血を引くこの少年がマジカルな歌を歌いながら止めてみせる)、『オーストラリア』は見事な佇まいを見せる。『オーストラリア』とは「語りくん」に救われ、そして彼を救い出そうとする、つまりとにもかくにも語りを巡るひとつの寓話としてあるフィルムなのだ。
そのとき、おそらくこう言うのが正しいのだろう。ここに語りはない、と同時に、ある。なぜならバズ・ラーマンは語りを、ひとつの夢として捉えるからだ。それは彼自身の、つまり決して正統なシネマを体現できないひとりのシネアストの夢なのか。あるいは、今後生まれるかもしれない「オーストラリア映画」が見る夢なのか。あるいは、そのどちらでもあるのか。とにかくバズ・ラーマンは、自分に足りないものと得意げに戯れてみせるような、シニカルな人間ではないと思う。逆にそれを夢見る、つまりは映画を夢見る、熱意のひとなのだ。と、そう思うのは私だけではあるまい。語りとは、いまやひとつの夢なのだと、そんなことを囁くように思わせるバズ・ラーマンは、だから憎めないし、それ以上に、ひとごとではない存在として現れるのではないか。
全国ロードショー中