『あとのまつり』瀬田なつき田中竜輔
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その街の人々は「忘れる」ことを恐れている、でもそれって本当に怖いことなのだろうか。『あとのまつり』の主人公であるローティーンの少女が抱く疑問はそれだ。だって「アディオス」とどこかに行ってしまったかのように見えた先輩は、あっというまにそこにまた戻ってきたじゃないか。ついさっき街路ですれ違ったキスを交わしていた恋人たちも、平手打ちを繰り出す大喧嘩をしてはいるけれども、バンドと一緒にダンスを踊ったその場所にいるじゃないか。「はじめまして」という言葉は、「忘れる」ことを恐れるための言葉じゃなくて、「出会う」ことを喜ぶための言葉であって、ショートパンツとロングスカートが、赤いパーカーと緑色のカーディガンが交換可能なように、その言葉の意味を「出会う」ことにスルッと着替えてやればいい。そうやって少女は携帯電話をひったくってきっかけを作り、少年とともに走り出す。横浜から東京まで一瞬だ。
それでも、それでもやはり「忘れる」ことは、哀しいことで、残酷なことかもしれない。少女はそれに直面する。『あとのまつり』はその哀しさも残酷さも否定はしない。でもそのかわりに、すべて肯定してくれる。その数十年後の世界、少女が「物語」を見つめるパソコンのモニターには、「どっかの誰かさんにそっくり」な少女がいる。そのモニターのフレームが、ゆっくりとこの映画のフォーマットに重なっていくとき、『あとのまつり』は風景が光の粒子へと還元されていく場所へ少女を導く。そこで少女が出会ったものについては是非実際に目にすることでご確認いただきたいが、それは、まぎれもなく「映画」そのものとの出会いにほかならない。「物語」と「現実」は決して対立するものなんかじゃなく、そのどちらにも共有されるものがあって、そしてそのどちらかが欠けてしまってもたどり着けない場所がある。そこに彼女の本当の「はじめまして」が生まれている。このフィルムが垣間見せてくれるのはそんな瞬間だ。
つまり 『あとのまつり』というフィルムを貫いているのは「行ったり来たり」の運動だ。「世界=現実」と「映された世界=フィクション」が前提としてあるのではなく、その双方の世界を生み出し、そしてダンスのように結び付ける運動として「映画」があるのだと、『あとのまつり』は清々しく宣言してくれている。少女が自らの血で記した「彼方からの手紙」は、風船とともに中国へ、北朝鮮へ、アメリカへと「奇跡」のように届くかもしれないし、あるいは東京のどこかの路上で力尽きるのかもしれないけれども、「それはまた別の物語」だ。だからその前にいまはとりあえず、少年と少女の、そして瀬田なつきの記してくれたこの素晴らしい『あとのまつり』という手紙に、「はじめまして」と多くの人が出会わんことを。
桃まつり presents kiss ! 3月14日(土)~3月27日(金) 渋谷ユーロスペースにて連日21:00より!