SPT(Setagaya Public Theatre)5号 戯曲で何ができるか?山崎雄太
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認知度はかなり低いと思われるので説明をすると、SPTは世田谷パブリックシアターがおそらく不定期に発行している演劇雑誌で、「劇場のための理論誌」といううたい文句である。2月末に発行された5号の特集は「戯曲で何ができるか?」。「劇場のための理論誌」「戯曲で何ができるか?」と書かれた表紙をチラと見るだけで、ほとんどの人はうわッと拒否反応を示し、無関心、といって素通り、手にされることすら稀であろうSPTは、しかし、とても面白かった。大きな書店にはきっと置いてあるだろうからぜひ少し覗いてみてほしい。橋本治や前田司郎、小林恭二といった面々にインタビューした特集も(良い意味でも悪い意味でも)なかなか興味深く読んだが、岡田利規の『友達』演出に際しての制作ノート及びインタビューには非常に興奮させてもらった。彼がここまで自らの劇作について語ったのは初めてではないだろうか。「より遠くに行ける可能性のある作品を生み出すため、ある方法論を持ちつつも、その方法論をそれ以上『引き寄せないように、それをいつまでも掴んでいないように、すぐに手放すように』心がけるという、それ自体が不思議な方法論」…で舞台を作ると言われる岡田利規は実際その通り、稽古開始3ヶ月前にワークショップを3日間やっただけで、一度いままでの方法を捨てることを決める。ただ、目指すべきものは一度もぶれることがなかったようだ。
チェルフィッチュを主催し常に演出作品は自ら執筆していた岡田利規が、麿赤兒、若松武史、木野花らを迎えて安部公房作『友達』を作り上げる、その過程で記した制作ノート(日記)に頻出するのが、concreteという言葉である。昨年早稲田大学で催された平田オリザ、宮沢章夫とのパネルディスカッションのなかでも繰り返していた言葉をここでは絵画を例に取り、風景や静物をそれとわかるように描くものを具象representational、ゴッホや白髪一雄のように「グワッという絵の具の量感」が「何かこっちにドカッとやってくるもの」を具体concreteとしたうえで、リアリズム演技というのは具象的な演技で、「僕がほしいのは具体的な演技なのだ」と繰り返し述べている。ただそれはもちろんリアリズムを否定するものではなく、そもそも具象と具体は必ずしも相反するものではない、とも。たとえば「男がハンモックに乗せられてしまった」という具象的な呈示から、何かゴロッとした具体的なものに突如変容してゆく瞬間を作り出したい、そこに至る過程をアントニオーニを引き合いに出して、「退屈のトンネル」という独自の言い回しを用いつつ劇場論まで展開。さらに、『友達』は暴力の話であるが、暴力の話であることは忘れても構わない、大事なのは目の前の行為なのだ、『友達』を終えて戯曲の善し悪しというものがさらにわからなくなった、戯曲賞の必然性がわからない、といった真摯故に過激な言葉が並ぶ(なにしろ特集は「戯曲で何ができるのか?」であり、インタビューに答えた識者全員が当然ながら戯曲の重要性から論を始めている)。いわゆるアングラ世代で活発だった自らの確固たる演劇論を打ち出すことは、それに次ぐ世代からわずかな例を除いて絶えてなかったように思うが、今日久しぶりに出会うことができた獰猛なこの演劇論は、絶望的な閉塞感しか感じない昨今の演劇界においての吉左右となるだろう。
「〈肉体〉は肉の塊だ。〈身体〉っていうと切り身になっちゃう。切り身は嫌だ」と言った麿赤兒に対し、「つまり、加工ができる。加工しているものが〈身体〉なんだ」と嘯き、コンクリートなものを作るためにはどう身体を加工すればよいかを模索する岡田利規の劇作プロセスは実に刺激的であるが、しかしそれはまだ現代に放たれたひとつの石にすぎない。ひとりよがりが横溢する日本演劇界は、これに首肯するも異を唱えるも、波紋を起こすべきである。