『7つの贈り物』ガブリエル・ムッチーノ黒岩幹子
[ cinema , sports ]
深夜にふらりと立ち寄ったシネコンで、最終回に間に合うのがこの映画と『マンマ・ミーア』だけだったために観ることに。『マンマ・ミーア』でなくこの映画を選んだのは、アバがあまり好きではない上に数日前に友人の結婚式に出たばかりだったというのと、この映画にはロザリオ・ドーソンとバリー・ペッパーが出演しているから、という単純な理由によるもの。
冒頭に「7日で神は世界を創った。7秒で僕は自分の世界を壊した」というウィル・スミスのナレーションが入り、“Seven Pounds”というタイトルがクレジットされる。要はある理由から主人公が7人の他人(彼が良い人間だと思う他人)に文字通り“献身”するという話なのだが、7という数字にこだわっている割に、この映画の時間の多くは主人公と彼が“贈り物”をする7人目の人物として選んだ女性(ロザリオ・ドーソン)が出会い、愛が芽生え、しかし……というストーリー展開に割かれている。それは彼女が最後に選ばれた人物、彼の計画の遂行と運命を左右する人物であるからで、物語の要請上致し方のない部分もあるだろう。だが、それにしても他の6人の存在があまりにも希薄というか、辻褄合わせ数字合わせのために無理矢理登場させられているようで不可解だ。たとえばウディ・ハレルソン演じる盲人は、最後に同じく主人公に「贈り物」をされた人物としてロザリオ・ドーソンに会うためだけに出てくる必要がある。さらに、唯一主人公の計画を知る弁護士の友人にたっては、便宜上出てくるだけで、ただの駒のような扱いを受けている(残念なことにその役をバリー・ペッパーが……こんな役もやる割に最近出演作が少ないのはなぜだ)。
この映画が主人公の行為をただ肯定するのではなく、観客それぞれにそれを受け入れることができるか、正しいか正しくないか考えさせようとしているのはわかる。「贈り物」とは何か、どうして主人公はそういう行動をするのか、その答を少しずつ開示していき最後にすべてが明らかに、という手法も狙いを外してはいないだろう。ただ、“献身”や“贖罪”という言葉の意味を問わざるを得ない主題を描く上で、彼から「贈り物」を受け取る人間がそのためだけに存在させられていること、“他者”の存在が描かれないことは、致命的な欠陥だ。ウィル・スミスの苦悩に満ちた表情をいくら時間をかけて映し出したところで、彼からの贈り物によって生かされることになる人物や、彼の周りで生きてきた人物の存在を、ウィル・スミスが苦悩しようがしまいが彼らが存在することを、感じられない以上、私たちはその苦悩を感じることもできないのだ。
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